11月号特集「まひる野 今とこれからの話―口語短歌をめぐってー」/浅井美也子
作者の見える歌
浅井 美也子
私の現代口語短歌との初めての出会いは、『まひる野』に掲載された山川藍さんの短歌だった。まひる野に入会し、参加した名古屋歌会で、初めてその短歌を読んだ時、「これは短歌なのか?」と、不思議な感覚になった事を覚えている。それまで目にした短歌は、カルチャースクールで学んだ「短歌らしい短歌」であったから、非常に新鮮で、そしてどう批評してよいか分からなかった。分かり切れないまま、山川さんの短歌を読み続けていた。
その後、二〇一八年に山川さんの第一歌集『いらっしゃい』が出版された。
降りぎわに腿をひと撫でされる朝性別にのみ辞表出したし
山川藍『いらっしゃい』
過呼吸のわたしを逃がしてくれた人も四月で派遣契約解除
去る人がひとりひとりに置いていくアドレスの無いやさしい手 紙
方舟に置き去りにした有休はいまも元気にしているだろう
非正規の人にも届くボーナスのお知らせだけでボーナスはない
歌集を読み、山川ワールドの扉が開いたような感覚がした。繊細な感性で外の世界を受けとめ、独特の言葉で紡ぎだされた歌の世界の真ん中には、現代社会に迷いながら揺られながら、でもしっかりと立とうとする女性の姿があった。一首目、通勤の車内で痴漢にあったという現実から、女性である故に味わう不条理を詠む。三首目、過呼吸の作者を助けてくれる優しい人も、契約期間が終わればあっさりと解雇される。そこに描かれるのは、人材の使い捨てだ。五首目、正社員時代、取得しないままだった有給休暇を思う事は、今の自分の働き方をみつめる事でもある。これらの歌は、独特の韻律、言葉選びで自らに強く引き寄せつつも、非正規雇用や格差といった、現代が抱える問題を、明らかにしているのである。
望まれるように形を変えてゆく〈主任〉はどんな声で話せば
辻聡之『あしたの孵化(ふか)』
理想、そんなものあるんですかと問いたきを 流しに捨てる冷めたコーヒー
溶け出していないか確かめるために布団の中で反らすつまさき
はつなつの表面張力 卓上のぬるきグラスにわたしは満ちる
生後とはかなしき言葉だれもみな名札いちまい胸につけおり
一首目、言いさしの結句が、作者の迷いを余韻として残す。望まれる形になろうとしている自分の在り方に迷いながら、二首目では、問わないままに、自らの思いを冷めたコーヒーと共に流しに捨てる。三首目、望まれる姿を模索しながら過ごす一日の終わりに、自分が溶け出すような感覚。四首目、「わたし」は、グラスに満ちており、少しのきっかけで溢れてしまいそうだ。五首目、「生後」とは人が生きる人生そのものだ。産まれた瞬間から、人は自分が何者であるか胸に示しながら生きている。しかし自分が何者であるか迷った時、名札は胸をしめつける重りとなる。これらの歌に詠まれた作者の心もとなさは、決して作者だけが味わっているものではなく、人がみな共有しうる感覚ではないだろうか。
山川、辻両氏の歌からは、現代社会で不安を抱きつつ、周囲と向き合いながら生きる作者の心の揺れ、偽らない素直な人生が、話し言葉である口語だからこそ生々しく、鮮やかに詠まれている。
この街の空気はいつもきたなくて有毒そうでドキドキしちゃう
加藤千恵『ハッピーアイスクリーム』
どの口がそうだといったこの口かいけない口だこうやってやる
望月裕二郎『あそこ』
くちうつしでアイス食べたらとけるまで無限に雪見だいふくできる!
初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』
私は、これらの歌から作者の感情も情景も、読みとる事が出来なかった。なんだか日記を読んだような読後感である。(尚、どの歌集にも、切なさが胸に迫る魅力ある歌もあった事を言い添えておく。)
作歌は、自身の心の内をみつめ、そこから生まれた感情を外へと向かわせるもの、そして歌とした後は読者へと手放すもの、と私は思っている。内へと掘り下げたまま、その中で完結している歌は、解釈が難しい。だから、韻律や言葉選びは大切であるし、歌の中には、作者の思いをきちんと伝える為の手掛かりが必要だと思う。そうでなければ、例え定型に収まっていたとしても、作者の姿が見えないリズム遊びになってしまうのではないだろうか。
口語短歌について私なりに考えてきたが、大切な事は、文語、口語にこだわる事よりも、短歌を通して何を詠み、何を伝えるかだ、と私は思う。
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