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年間テーマ「ユーモア」⑤

「理解」とユーモア    

   今井恵子


  一九七〇年代後半、「ナンチャッテおじさん」という人がいた。残念ながら出会ったことはないが、東京山の手付近の電車に出没して、不道徳者に説教をしては「ナーンチャッテ!」とおどけて次の駅で降りて行く。たとえば、立っている老人を前に座席を占めている青年に向かって突如大声で、「駄目じゃないか。老人に席を譲れよ」などと言い放つ。周囲があっけにとられていると、駅に到着して開いたドアの前で「ナーンチャッテ!」とポーズをとって姿を消すのだと噂された。昨日は小田急線に出た、今日は井の頭線にいたそうだと、半信半疑の話が職場の休憩時間を楽しませたことを思い出す。ウィキペディアによれば、この人が実在したかどうかは定かでなく、都市伝説の類かもしれないという。が、真偽のほどはともかく、このアイデアはなかなか大したものだとわたしは今でも感心している。

あるときは「ビローン」と言ひて霜焼けの昭和児童を歓喜せしめたり              
           島田修三『帰去来の声』

「ビローン」は、コメディアン谷啓のギャグである。コントのなかで追い詰められた谷啓が「ビローン」という意味不明の音声を発してその場を烟に巻くというもの。テレビが日本の家庭にゆきわたったころ、少年少女たちは茶の間の視覚メディアに目を瞠ったものである。「ビローン」は、単純率直明解に暮らす「昭和児童」に大きな心躍りをもたらした。屈託ない瞬時に弾けるような笑い声が聞こえてくるようだ。「ビローン」は「ナーンチャッテ」に通じる。

呼びつけて云はんとしたる言忘れおのが額(ぬか)打ちやがて笑ふも
           四賀光子『白き湾』

 老人がみずからの物忘れに苦笑している場面を描いた歌。一首だけでは状況がつかみにくいが、妻が夫の看病する連作中の歌である。連作中には「白きシーツに黒き二つの眼が澄みてしづかに人の瞬きをする」「声立てて翁は笑ふ若き日のおのれきほひし文章よみて」などがある。病床に臥せっているのは太田水穂、「おーい、来てくれ」と言ったかどうかどうかわからないが、枕頭に呼びつけられたのは四賀光子である。「ビローン」とは対照的に、老境にいたった夫婦の、厚みのある時間が流れている。呼びつけられ行ってみると病者は用事を忘れ、自らの額を叩いた。生活を共にしてきた夫婦の時空を包み込むような結句「笑うも」には、互いを認め合う豊かさがある。
「ナーンチャッテ」「ビローン」には、発声が、緊張の高まった場を、瞬時にして和やかな笑いに包んでしまう力がある。これは、それ以上煮詰めたら双方とも傷つく、あるいはそれ以上歩み寄れないという場面で、「お互いに今日はこれまで」とでもいうように、やわらかな終止符を打つ。対して「笑うも」は、瞬時の笑いではない。長い時間を重ねてきた末に共有する、無言の時空が広がる。瞬間の切れ味のよさと、長い人生の味わいであるが、共通しているのは、自己が相対化されたときの気持ちに生れる間隙である。それがふっと心地よい笑いを呼びこむ。

           *

 今年四月一日に他界した社会学者見田宗介は、『まなざしの地獄』で、労働の場をもとめて上京した青年永山則夫が、世間の「まなざし」によって人間性を奪われてゆく過程を描いてみせた。永山は一九六九年、市民四人を射殺して逮捕され死刑囚となった連続射殺犯である。『まなざしの地獄』は、「社会にあらかじめ用意されている安易な理解の枠組みにあてはめられ、それによってぼくという存在が理解されたかのように扱われてしまう問題」(HP好書好日)という視点から、都市消費社会の中で摩耗してゆく永山の足跡をたどり、世間の「まなざし」(=レッテル貼り)によって追い詰められた人間を照射した。
 右の文中の「社会にあらかじめ用意されている安易な理解」に注目したい。今日「理解」は、多くプラスのニュアンスをもっている。「皆様のご理解ご支援をたまわり感謝します」「課長に気持ちを理解してもらって嬉しかった」などというように。しかし反面、「理解」には負の側面が潜み、それが「社会にあらかじめ用意されている安易な理解」ではなく、好意的「理解」であったとしても、思わぬところで他者を貶めているかもしれないということを、わたしは最近になって、柳宗悦についての次のような言及から知った。
 朝鮮民藝を見出し高く評価した民藝運動は、日本統治下にあった朝鮮の状況を考えれば、朝鮮文化への大きな貢献であった。今日でも民藝美術という新しい領野を拓いた慧眼は特記されるものである。しかし七〇年代、「李朝白磁にもっぱら民族の悲惨な隷属の歴史の反映を見て『悲哀の美』を強調する柳の視線は、韓国人を敗北感へと追いやり、韓国の歴史を自主性の欠如したものとする植民地史観と本質的には変わらない」(稲賀繁美編『異文化理解の倫理に向けて』)として、柳は韓国側から強い批判を浴びたという。「理解」が批判されたのである。
 これは、「理解」には「理解する者」と「理解される者」があり、両者が十分に頷き合う難しさを示している。「理解する者」と「理解される者」との間の、このような厚い壁をわたしたちは普段あまり見ようとしない。「理解」への努力は問題解決のために継続されなければならない重要事項であると同時に、時として「理解」に潜む暴力性には敏感でありたい。
「理解」は、異文化の接触や混交がますます進んでゆくこれからの社会で大きな主題となってゆくだろう。国家や民族という大きな枠組みだけでなく、親子や夫婦といった個人的人間関係においても、ますます「理解」の深度や厚みが問われてゆくだろう。そして、重要になればなるほど、「理解」にともなう困難も、明解な輪郭をもって目の前に立ち現れることだろう。この点で、永山則夫の味わった「まなざしの地獄」は、きわめて今日的な主題だと思われる。国家同士、民族同士、人間同士にどのような「理解」が可能なのだろうか。
 わたしは、「理解」に過剰な期待をするのではなく、いわゆる「あそび」(=間隙=緩衝帯)が必要だと思っている。無理して「理解」するのではなく、理解不可能を認め合う心とでもいえばいいだろうか。ユーモアはその潤滑油である。

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階下(した)の老婆はわが姓も名も覚え難しといひていつよりか「お二階」と呼ぶ       安立スハル『この梅生ずべし』

 安立スハルは「老婆」にとって馴染みのうすい姓名だったのだろうが、わざわざ覚えられないと口に出して言うのも無礼だろう。「お」をつけて「お二階」と言えばよいというものでもない。作者は現実をみつめ名前の読みにくさを突き放し相対化して、「老婆」への皮肉をこめた。老婆との対峙が可笑しい。
 
何のための看板なのか「アゲハチョウを見かけませんか」見かけませんよ 
          水野昌雄『百年の冬』

 めずらしくないアゲハチョウを「見かけませんか」と問う看板は何処にあるのだろう。誰も気に留めないような看板の前で意味を考える。さらに「見かけませんよ」と答える過度な誠実ぶりは、読者からすると可笑しい。が、テレビの前や読書中、わたしたちはしばしば同じような応答をしているのである。

充分の時間あるのに注文の料理をせかす妻をなだめる
          奥村晃作『ビビッと動く』

 夫婦で外食をしている。注文した料理が遅いと妻は店員に苦言を呈している。夫はそんなに急がなくてもいいではないかと妻の気持ちを静めている。妻は料理が運ばれる時間を、夫は自分たちのスケジュールの時間を考え、いっしょに食事をしていても着眼点が違うのである。「せかす」人と「なだめる」人との対照が、卑小なわれら人間を慈しんでいるようで楽しい。

さそはれて窓より首を出すときに短かすぎたり人間の首
          西村美佐子『猫の舌』

 窓の外からの声に応じて思わず身を乗り出す。嬉しい誘いであったか、好奇心を刺激されたか、強く惹かれたのだろう。気持ちの勢いに即して身体が伸び縮みすればロクロ首になっていただろう。しかし、残念ながら人間の首は身体に規定される範囲の動きしかできない。そのことを忘れてしまったような瞬間があったのだ。生きていると確かにこういうことがある。
 ユーモアはしかつめらしく考えると色褪せてしまう。この稿を書くために新書文庫の類を何冊か読んだが、ユーモアの解説はわたしの狭小な知識を広げるには役立ったが、いたって真っ当に書かれているその文章自体には、あまりユーモアは感じられず、あたかも自歌解説を聞いているがごときであった。当然である。解説や紹介は真っ当でなくては成り立たないが、ただ真っ当に解説しただけではユーモアは分からないことをあらためて確認した次第である。わたしは真っ当を軽んじる者ではないが、ユーモアの味わいは、詩情を味わうときと同様に、解説されて得られるものではないのである。ナーンチャッテ!

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