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年間テーマ〈特集「都市を詠む」〉⑤

「会いたさ」としての都市・東京
        塚田 千束

 都市という言葉がはらむ意味はあまりに大きい。そこに集う人々、その場を形成する構造物、元からの土壌、歴史の積み重ね、すべてがあつまり混ざり合い、一言にするには難しい巨大なる「なにか」として日々その形を変えつつある。日本の都市といえば真っ先に思い浮かぶのは東京だろう。ほかにも横浜、大阪、名古屋なども大きな都市ではあるが、それぞれのもつ雰囲気はやはり異なっている。今回はそこに生まれ育った人ではなく外から訪れ去っていく「異邦者の立場」から見た東京の歌を引用することで都市詠について考えることにする。
 
巨大なる会いたさのことを東京と思うあたしはわたしと暮らす
        北山あさひ 『崖にて』
トーキョーに来るたびにお茶しすぎるよ ぜんぶ追伸みたいな会話
        笠木拓 『はるかカーテンコールまで』
東京に生まれ育ってみたかったぼくを寝かせてそれからねむる
        山階基『風にあたる』

 北山は東京を「巨大なる会いたさ」という。東京という土地に会いたいのではなくそこに住む人たち、そこに行けば会える人たちのことを「東京」に込めていると読んだ。地方に住んでいると東京のなかでの行き来(あくまで中心部かもしれない)、ならびに東京までのアクセスの方法は、たとえば地方から地方へ行くよりずっと容易いのだとわかる。電車を一本乗り過ごしても数分後にまた同じ行先への電車が来ることを知って驚いたし、その場に一緒にいた都会に住む友人はそんな私に変な顔をしていた。北海道から八戸までの行き方を調べている時にこれは東京に出る方がずっと楽だとびっくりした。人に会うために東京に行く感覚は、地方在住者にはよくわかるものだろう。
 笠木の歌にある「トーキョー」も前述とおなじく人と会うための場所として表れている。カタカナで間延びした呼び方になることで余計に東京そのものの意味は剥ぎ取られ、空虚な雰囲気が漂う。「トーキョー」への価値はそこで会うひとたちの価値と等しくなる。追伸みたいな会話というのも興味深い。本文には語られることのない脇道ながら伝えたいことではあるのだろう。トーキョーはほかの用事(=本文)で訪れており、その隙間時間に人に会う(=追伸)という解読もできる。会うたびに場所として言い訳として、「お茶」を繰り返す。東京にカフェがあふれているのは皆だれかと会うために訪れる街である宿命なのかもしれない。
 東京に住むという仮定の話をするのも、「東京」と「それ以外」の明確な差を感じているからだ。東京には選択肢がある。学校を選べる、習い事を選べる、隣人を選べる、趣味を選べる、出かける場所を選べる、買うものを選べる、仕事を選べる。人生の選択肢が圧倒的に地方とは違う。山階の歌はそこに生まれたなら違った選択があっただろうことをおそらく羨みながら、同時に当たり前だがそうはならない人生を引き受けている。
 地方に住むとは一種の諦めである。ない袖は触れない。知らないものは存在しないものとして触らない、近寄らない。しかしインターネットが発達し十代のうちから膨大な情報にさらされる昨今、親世代であれば知らずにすんだことたちが波のように滝のように目の前に現れる。同じ世代の、単に住んでいるところが違うだけの彼らがたやすくアクセスできる場所に、人に、ものに、チャンスに、地方に住むというだけでひどく遠くなってしまう。不可能ではないことがよりもどかしい。

北山様、北山様と呼ぶ声に痴れてゆくなりCHINZANSO TOKYO
        北山あさひ『崖にて』
やたらと壺、それにいちいち手を触れてキタヤマサマは非正規職員

 北山の歌集には印象的に残る歌が多々あるが、中でもはっとしたのは連作「金持ちごっこ」だ。ここにあるのは東京や富裕層への一種の嫉みだ。それを自覚し、非正規職員であり年収はここに泊まる新婚夫婦に遠く及ばないだろう地方出身者の自分を引き合いにだしながら、どこかからりと自己と他人を見くらべている。椿山荘という舞台を読むことでそこに滞在できる人々、彼らの普段の暮らしを透けてみせ、その裏にある地方格差あるいは社会における男女の待遇の差、社会構造を感じる。持てる者は気づきにくい、持たざる者からしか見えない部分がある、それはそのまま地方と都市の違いにつながる。
 もちろん東京に住み、そこでの生活をいつくしむ歌もある。雪舟えまは北海道出身だが、東京在住時と思われる歌は素朴で、生活を楽しんでいるものがいくつもみつかる。

西荻は青春でしたとめぐがいう めぐは西荻を守ってたんだ
        雪舟えま 『たんぽるぽる』
愛してる東京 アパートの庭木のつるをつかめば一階の秋
東京の道路と寝れば東京に雪ふるだろう札幌のように 

 ここにあらわれる西荻は、東京だがどうも都心ではない印象だ。どちらかといえばこじんまりした、地方に近い土地のイメージを受けた。これらは東京を詠んだ歌というくくりにはいるのだろうけれど、レトロで、昭和や平成初期の匂いすら感じる。最先端の街、東京というイメージとはやはりずれていく。隣人との交流、新しく暮らし始めた土地に己を重ねていくような生き方で居場所をつくっていく。己を媒介にすることで東京は未知の大都市から故郷の空気をわずかにふくむ場所へ形を変えていく。雪舟の歌は変容を受容し、また自らも変容していくおおらかさがある。
 
 先に挙げた北山、笠木らの歌では東京はあくまで目的を達成する場所、だれかと会うための場所という手段に思える。一方でそこに住むことで受けられる恩恵について、山階、北山らが歌うことで浮き彫りになるのは地方とのさらなる格差だ。
 だが東京それ自体を考えようとするとだが混沌とし始める。以下、あまりに有名な東京を詠んだ歌をあげる。

夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで 
        仙波龍英『わたしは可愛い三月兎』
プリズンの崩れしのちを太陽の塔は苔むし建ちたるあはれ 
        黒瀬珂瀾『空庭』
一斉に都庁のガラス砕け散れ、つまりその、あれだ、天使の羽根が舞ふイメージで

 東京出身・在住であればリアルな東京の風景を詠むかといわれるとそう簡単なものではないらしい。仙波の歌では、東京は本物の東京を見ていながらその背景に二重写しのようにちがうなにかが浮かびあがってくる。PARCOという華やかさの象徴はしかしそのまま巨大なる都市への墓碑となってしまう。繁栄の背後に滅びを予兆する感覚は普遍的ながら、自らが過ごす場所に墓碑を想起するのはどこか空恐ろしい気がする。ありふれた景色の中に違和感を見つけ出すのは異邦者の感覚だとしたら、仙波は故郷にあっても人は異邦者たりえることを教えてくれる。
 東京に次ぐだろう都市である大阪出身の黒瀬の歌も、また東京を異質なものとして描写している。そこに現れるのはまるでゲームやドラマのワンシーンのように鮮やかに、美しく妖しい姿をしている魔都のようだ。そこに人々は住みえるのだろうか、安住の土地としてのイメージはあるか?
 賑わいと繁栄の裏にあるだろう格差や過去の歴史の産物をふくみ、ますます収集がつけられない。都市全体を詠むことは難しく、みなそれぞれの一部分を切り取らざるを得なくなるのではないか。
 今回取り上げたのは主に東京を故郷としない人々の歌であり、長年の東京在住者の意見とは異なっているだろう。また東京という都市自体、過去から現在に至るまで様々な変化を遂げており(本誌二〇二一年二月号島田修三氏の特集では過去から現在に至る東京の都市詠を取り上げている)、一言で表すのは難しい。都市詠という広い課題に取り組むにあたり、今回あえて狭い範囲での切り取り方をしており、年代の変化や内部からの視点への分析は行えておらず、都市詠全体の分析には至っていないがこれらは今後の課題としたい。
 異邦者から見た東京は手段であり、暮らしや日常とはやや異質な街と感じられる。都市は様々な価値を内包しているが、大切な役割の一つとして「人と人が集う場所」があるはずだ。都市はひとに会うための手段であるなら、そこで会う人の価値がそのまま都市の価値となり、その相手を詠むとき背後にはおのずと都市の姿が立ち現れるのかもしれない。

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