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年間テーマ〈特集「都市を詠む」〉③

  可視化されぬ闇

                富田睦子


 一月七日、私の住んでいる東京都を含む南関東一都三県では再び緊急事態宣言が発出され、飲食店を中心にした時短営業やリモートワークの推進などが要請された。リモートワークはともかく、時短や交通機関の減便はかえって営業中に人が集中するのではないかと疑問なのだが、要は企業や市民のメンタルに訴えかけ「自粛」マインドを作るための施策なのだろう。
「都市」とは「人が多く集まり、政治・経済・文化の中心となること」だという。だとしたら、いま都市は存在の否定に直面している。街に出て人と会い、そして話をしたり、消費をしたり、楽しんだり、都市の繁栄自体を咎められているからだ。

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街(まち)に出(い)でて働きたしといちやうに糧(かて)なき村の兒(こ)らが文章
          結城哀草果『すだま』
若者ら糧(かて)なき村を出(い)でゆきて消防組が解散をしぬ
憐みを強ふるしぐさも身に添ひて襤褸(らんる)のいのちときのま光る
          大野誠夫『薔薇祭』
六月の雨饐(す)えくさき地下道に瘠せ細りたる脚むれてをり
石のうへ肩すりよせて眠りしが寒き朝明けにいくたりか死にぬ


『すだま』は一九三五(昭和一〇)年刊。引用の二首は当時の寒村の様子を写し取っている。
 一首目、食うや食わずの生活から抜け出して街で働き給料をもらい楽しく暮らす、それが「いちやうに」子どもたちの夢なのだと詠う。子どもたちは卒業後実際に村を出て行ったらしく、二首目では防災ボランティアである「消防組」が解散になったと詠う。こうして雇用を生み出せず働き手を流出させた村はより不便で貧しくなり、ますます都市に人は集まる。
 一方で豊かになった都市は、様々な人を抱え込む。『薔薇祭』の発行は一九五一(昭和二六)年。収められた作品は昭和二〇年~二三年のもので、引用歌に歌われているのは、都市に暮らす戦災孤児の姿である。二首目三首目、人目のつかない地下道などに潜んで身を寄せ合って暮らす孤児たち。彼らは都市でしか生きられない。人が集まりお金が集まったとき、そこには余剰・余裕が生まれる。隙間と言ったほうがいいかもしれない。彼らはその隙間で、一首目にあるように、弱者である自分をあからさまにして物乞いをしたり靴磨きのような仕事をして(そして時には軽微な犯罪などにも手を染めつつ)なんとか生き延びたのだろう。
 都市に夢を抱き豊かさを享受しようとする人だけでなく、都市には都市でしか生きられない人が集まる。ホームレスの多くは都市にいる。家出した少年少女も都市に向かう。街は様々な人々を呼び込み、村に比べて同一化を迫らない。迫り切れず見逃される。見て見ぬふりの冷たさと自由は裏表だ。
 都市の過密は一方で脆さを内包する。例えばちょっとした雪や雨風で鉄道が混乱するのは都市に住む人が軟弱だからではなく都市が過密で影響し合っているものだからである。そして例えば、大きな災害が起きた時、人の多さ、建物の密集はそれ自体が進路をふさぎ、火災を起こす脅威となる。

逃げまどふ焰の底にこれやこのわが肉親の顔をかぞへつ
いづくへ運びかゆかめこの焰に焼かれはつべき家財をすてつ
ひそひそとをしへられたるあひことば暁闇におり立つわれは
誰れぞと呼べば闇深く近よる老僧顔さしよせてパンくれにけり
ひたとさわぎ静まる橋のかなたかの追はれしは殺されにけむ
両岸よりひた投げに投ぐる礫(つぶて)のした沈みし男遂に浮び来ず
           土岐善麿『緑の斜面』

 『緑の斜面』は一九二四(大正一三)年刊。前年に起こった関東大震災の歌から始まる。関東大震災については空穂にも大きな一連があるが、風向きの関係で家が焼けなかった空穂に対して浜松町に住んでいた善麿は焼け出され一家で避難してさまよった。その様子を善麿は「地上」という百首の作品にしている。
 一首目二首目は震災直後避難してゆく様子。「焔の底」という描写も迫力があるが、はぐれる者がないように家族の数を数えながら逃れたという下句に事実の重みがある。二首目では家財を持って避難しようとしていたところ、どうしたってどこかで焼けてしまうものだと捨てていったという。火勢のすさまじさがうかがえる。
 関東大震災はお昼時に起こったために容易に火災が発生したという。また、日本海側を台風が通過中で、東京の町は東に向かって強風が吹いていたともいう。木造の町のすべてが燃料のような状態だったのだろう。こうなると、人も、家も、家財もすべてが凶器だ。
 三首目以降は赤羽橋まで避難した時の歌。三・四首目は何やら不気味だ。人目を避けて早朝の暗さの中を出かける善麿。「あひことば」とはなにを表すのだろうか。四首目を見ると、どこかの境内でパンを分けてもらったようだ。善麿の生家は寺院だし、当時は新聞記者をしていて顔も広かっただろうから、何か伝手があったのだろう。「あひことば」とは、その目印だろうか。しかし、「顔さしよせて」くるくらい近づくのならば、合言葉など不要ではないだろうか。
 確証はないのだが、関東大震災の際は井戸に毒を投げ込んだというデマが飛び交い、たくさんの外国人が惨殺されたという。同時に、地方出身者の「訛り」が誤解されて、そこでも多くの人が殺されたという。もしかしたら、なんらかの「ちゃんとした日本人」だという「あひことば」があったのかもしれない。それはどのように、誰に伝えられ、また伝えられなかったのだろうか。五首目・六首目には虐殺される人の様子が描かれている。彼はなぜ殺されたのだろう。
 恐ろしい話だが、都市がなんらかの危機に揺らぐとき、その隙間になんとか生きていた弱者の身は、一番最初に危機にさらされる。歌人はそれを見逃さなかったのだ。
 現在はどうだろうか。能動的な殺人でなくとも、二〇二〇年七月から十月の間の自殺者は16パーセントの増加、特に女性は男性の五倍の37パーセントの増加だという。二〇歳未満の若年層の自殺も49パーセント増加していて、弱者の置かれた状況の過酷さを想像させる。

履歴書を三味線として流れゆく瞽女(ごぜ)であるなり派遣社員は
      沼尻つた子『ウォータープルーフ』
仮住まいだと思うから暮らせてる 繋ぎと思って仕事もできてる
         田宮智美『にず』


 不安定な雇用形態のなか一人で、あるいは片親家庭の働き手として喘いでいる歌はここ数年多く見られる。この状況下でこれからもっとギリギリの場面を描く歌が多くでてくるのかもしれない。

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 一方で思う。とはいえ沼尻や田宮は結社の年会費を払い、歌集を出すことができたから読者は作品を読むことが出来るのである。善麿の歌の、石を投げられ殺された人はその痛みを詠むことはできなかった。大野誠夫の描いた夜明け前に死んだ子どもはその空腹を訴えられぬまま死んだ。自己を俯瞰して短歌作品をつくり、人目に触れさせるにはどうしてもある程度の理性と余裕が必要なのだ。

外に出ればあいの子と石打たるる子傷の血も涙も黒きを流せ
あいの子の黒とはやされ泣ける子を抱くわがからだ蕀立ち慄ふ

 これらは昭和28年の「女人短歌」16号に掲載された一連にある。この号は思い切った編集をしており、一切作者名が書かれていない。誰が詠んだ歌かわからないのである。この一連は作品1の一一番目、戦後まもなく外国人との間に産んだ子を(特に、障害のある子を)育てる母親の怨念が込められた作品であり、現在では引用するのを憚られるような差別的な表現もあるが、本人の境遇と読めば受け止めるほかはない。この一連について次号「女人短歌」17号で葛原妙子はこう述べる。〈このような境涯の作者がこのように歌をよみこなせるといふ驚きと、かうした作者の初登場をこの様に快くむかへることが出来た女人短歌の雅量を嬉しく思つたからである。(中略)しかしながら、私はその歌を幾度か読み返すうちに、「これはあるひは作者自体の経験ではないかも知れない」といふ疑問がふつと頭をもたげた。(中略)自分に非ざる経験を自分の経験として歌つたこと、云ひかへれば他人になり替はつて他人の心境を詠んだことが判明したときに鑑賞者である読者の気持ちはどうであらう。〉。
 果たして、この作品の作者は阿部静枝であった。静枝の夫は代議士で静枝自身も区議として社会問題にあたったから、この試みが面白半分のものでないことはよく分かる。しかし、やはり私自身も葛原の言うように〈甚だ白ざれた気持になり、作者の名を知らずにゐた時ほどこの歌に情熱がもてなくな〉ったのは間違いない。苦悩する姿がリアルに描かれれば描かれるほど、他人が取材してそう描くのは倫理的に問題があるのではないかとすら思ってしまう。それが問題意識から出たものであっても短歌で他人の苦しみを描くのは難しい。戦前戦後と違い倫理に目覚めた現代ではさらにそうだ。

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 戦災や大きな自然災害では、それに付随して都市に様々な困難が生まれる。感染症による現在の災害も、問題は病死に留まらない。それは今までは、歌人の目前にあった。だから歌人は当事者でなくとも自分が見たままを残すことができた。
 しかし、都市から人がいなくなったとき、その片隅で死んでいく人を見る人もいない。