見出し画像

年間テーマ「ユーモア」⑧

ユーモアを書きながら考える
滝本賢太郎


 
 書けないときは書けない状況から書くとよいと誰かが言っていた。なのであらかじめ言う。書けない。なんとか文字を並べてはみるが、短歌のユーモアについてわたしは最後まで何も言えないだろう。わたしはそもそも、歌人のユーモアなど信じていないのだ。どころか彼らはユーモアから最も遠い人種だと思う。なのでこのテーマを考えれば、短歌にユーモアなどないと言わざるをえなくなるし、筆がすべって延々歌人の悪口を書き連ねそうな気配がある。わたしだってそんなことを書きたくはない。所属する結社誌の誌面に、わざわざガソリンを携行缶に詰めて自ら火を放つようなマネはしたくないし、人を悪く言いたくもない。だが嘘もつきたくない。なのでこのテーマには口を噤みたい。断ろう。それがよい。ところが依頼葉書には断る際の期日や連絡先は載っていない。書けない。書けないときは書けない状況から......。
 以上の延々とループする思考から抜け出せぬまま桜桃忌を過ぎた。もう後がない。なんとか踏み出してみる。有り体に言えば、わたしは歌のユーモアがわからない。少し前まで担当していた合評では幾度かユーモアという評語を用いた。ここに嘘はない。個別の歌にユーモアを見ることはできるのだ。だがユーモアを軸に歌を見ようとすれば、途端に何がなんだかわからなくなる。困惑して特集のこれまでの評論を読み返した。引かれた歌もその論とあわせて読めば、ユーモアと呼ぶ理由も理解できる。だがやはり共感はできない。完全には腑に落ちない。ひっかかるものがある。これが俳句だと事態は異なる。俳句のユーモアは割とすんなりわかるのだ。毒茸怒鳴られながら捨てにゆく中本真人のこの句に初めて触れたとき、笑いを堪え切れなかった。中七が特によい。なぜ怒られているのか理解しきれない者の困惑した顔を「ど」の頭韻が呼び起こす。
 ユーモアは自己批評としばしば言われるが、この句にはその特徴が強く刻まれている。ここで言う自己批評とは単に戯画化した自身の描写とは峻別されるべきものだ。自身を完全なる客体として、遠方から関与することなく、ただただ眺め続ける冷たい自身が不可欠となる。喩えれば夜の道をゆくわたしたちをずっと追いかけてくる月の、あの視点である。
 ユーモアとなる自己批評とは、観察者と観察対象の自己のかような間を吹き抜ける風であり、軽く素早く、だからこそあの「疾走する悲しみ」に似て、おもしろうてやがて悲しきものなのだ。色彩を即座に転じるあえかな風の感触は、その速度ゆえに、そもそもが突き詰めた思考を拒む。それでも果敢に行おうとする蛮勇は、面白さの由縁を縷々述べ立てる大野暮と紙一重を通り越して同居してしまう宿命にある。野暮とは言葉を変えれば愚直であり、等身大であり、精一杯である。どれもわたしの嫌いな言葉だが、歌の批評ではむしろポジティブな意味合いを持つ。歌人に必要な特性と言ってもよい。これは別に皮肉で言っているのではない。ユーモアの基調である批評と歌は、そもそも異なる性質を持ち、批評を風の文芸とすれば、短歌は水の文芸だからである。
 短歌と水のイメージの相性は「たおやか」や「とっぷり」といった言葉との親和性からも、敗戦後短歌を痛烈に批判した小野十三郎が槍玉に挙げる「濡れた湿っぽいでれでれした詠嘆調」からもうかがえよう。坪内稔典は『俳句的人間・短歌的人間』で、日本人をこのタイトル通りの二つに分類する。俳句的には客観性と冷静さ、短歌的には主観性と自己陶酔を見る坪内のこの分類は、森鴎外がニーチェからやや簡略化して引いたアポロン的、ディオニュソス的の区分を更にラフにした感がある。この分類を更に進めて、俳句を軽やかで批評的な風の詩、短歌を感情と共感の水の詩と捉えてみたい。水と風の区分は、ユングの影響の下で発達した心理占星術の用語から拝借した。占星術では元来風と水は思考型、感情型と対立する要素だが、ユングはここに人間は均衡を目指す生き物であるという観点を取り入れる。結果、風型の人にはその正反対の要素である水が、水型の人には風が、時として非常にナイーヴな形で表れるという。冷静沈着な人のはずなのに、こと恋愛になると突如後先顧みない行動に出る。これが占星術で言う風の強い人に顕著な水の暴発の一例である。
 先に挙げた小野の短歌批判は、水に暴発した風の好例である。自分自身にも深く根付いた水の情緒の否定とは自己否定に他ならず、そこに冷静さはない。しかしだからこそ、鬼火じみた強度が宿り、激烈に作用する批評となる。当時の歌人を襲った第二芸術論の疾風怒濤の中で最もこたえたのが小野の論というのは頷けるし、話は逸れるが、あれは自己批判だからその批判はあたらない、全く問題ないと突っぱねて反駁した気になっている批評家風情の歌人よりも、あの批評の傷跡から歌を詠んでいった歌人や小野自身の方がどれだけ信頼できることか。ついでに言えば、現代の短歌も『短歌的抒情』の地平からは一歩も出ていない。今も読まれるべき、また乗り越えられるべき批評であるとわたしは思う。
 話を戻して、ユーモアの歌とは水にナイーヴに表れた風だと思う。
 
豊葦原瑞穂国の白飯(しらいひ)をコーラで流し込むのはやめよ
                     高島裕『嬬問ひ』
ほくほくはやきいも ぽくぽくは木魚 ああ、ぼくたちは啄木が好き
                吉野裕之『空間和音』
学歴をなほ信じゐる母連れて春のハトヤに来たりけるかも 
                  小池光『日々の思ひ出』

 
 ユーモアの歌がわからないなりに、ここに引いた歌にはユーモアが意識されているように感じる。一首目の国粋主義しぐさとでも呼びたくなる大時代的なケレン味は、米とコーラという確かにぞっとしない食い合わせの批判にしては過剰であり、その過剰は笑いを誘う。とはいえ「白飯」と古風に詠う上句の流麗な過剰には、ポーズとも言い切れぬ自己陶酔を感じさせる。戯画的ではあるが自己を突き放さず、どころか一体化している批評の目が感じられる。二首目を藤原龍一郎は、かつて「児戯にすぎない」と一蹴している。「啄木が登場する必然などなく、ほく、ぽく、ぼくという他愛ない音の連想にのみ、依りかかっている。これで一首の短歌が書けたと思われてはたまらないと、当時の私は憤慨した」。この憤慨も、生真面目に歌を詠む人からすればもっともだとは思う。しかし意味も生活もあっけらかんと排した言語空間でクローズアップされる言葉が溶解する様子、そこにわたしは惹かれる。かような言葉のアナーキズムは、ライトバースが意識しつつも、結局は甘々な自己撞着に陥って手をつけられなかった領域へ続く道にも思える。その一方で、やわらかいリズムのせいだろうか、歌の持つ抒情、溶解した言葉をたおやかに包む水の抒情はひときわ強い。吉野が呈示したかったものは、旧来の短歌の構成要素を削ぐことで却ってきわやかになる歌の抒情ではなかったか。とすればここに働く批評性は、(それが目的だったにせよ)抒情に回収されてしまっている。三首目の小池の歌には、母と自身を俯瞰する視線が確かに感じられる。その点では先の二首とは異なる客体化が見られるが、茂吉の語法を積極的に取り入れた「けるかも調」や「春のハトヤ」は淡色で甘い抒情を醸成する。(ついでに書く。これに続く「行き暮れてハトヤはいづこ蹌踉とハトヤはいづこ泣くなたらちね!」はユーモアとは異なる戯画の歌であり、やりすぎである。このやりすぎ、わたしは好きだ。)
 たとえ冷たい眼差しの批評性を持って詠っても、短歌である以上、それだけでは終われないのだろう。ユーモアのみを掬いとるには、三十一文字の詩型は長すぎるのかもしれない。だからわたしたちは、ユーモアを介して共感や情緒におのずと照準を合わせてゆく。啄木の「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる」も甘々なお坊ちゃんの戯画にも見えるが、まあ普通はそうは読まない。この構図がいかに戯画的であっても、そうまでさせる感情が歌の隅々にまで漲っているからだ。この感情とは作者の強烈な自我にほかならず、先の三首にもタイプは違えどどれも強く感じられる。だが強烈な自我は冷たい批評の眼差しとは、そもそも相性が悪い。書きながらわたしは、落語「粗忽長屋」を思い出している。粗忽者が行き倒れの男を自分だと思う。自分の遺体を自分で引き取ると言って聞かず、抱きかかえる。短歌のユーモアでは、観察する自己が観察される自己をこのように抱きかかえてしまう。サゲの「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺は一体どこの誰なんだろう」という声は抒情に沈められ響かない。

自動販売機灯れるところ六道の辻と笑いて相別れけり
キウリグサなるほど胡瓜の匂いしてだあれもいない空は暮るるか

 
 岡部桂一郎『戸塚閑吟集』『竹叢』より一首ずつ引いた。非常にからっとしている。「だあれもいない」も抒情に流されていない。岡部の歌には、強烈な肥大する自己がない。どころか特に『戸塚閑吟集』以降、努めて自己を削いでゆく傾向が顕著になる。これらの歌にわたしはユーモアを感じるが、それをユーモアの歌として解く力が、いまのわたしには残念なことにない。精進、する。