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年間テーマ「ユーモア」⑦

『いらっしゃい』と「エアお冷」  北山あさひ

 『酒寄さんのぼる塾日記』という本がとても面白かった。「ぼる塾」というのは女性四人のお笑いユニットで、田辺さんの「まあね~」というギャグをテレビで見たことがある人も多いのではないだろうか。この本を書いた「酒寄さん」はぼる塾のリーダーで現在育休中。なかなかテレビに出られない焦りや、自分はぼる塾に必要ないのではないかという葛藤、そしてメンバーに対する信頼と愛情を笑いたっぷりに綴った名エッセイ集なのだが、その中でも特に印象に残ったのが「エアお冷」という一遍。酒寄さんがお笑いの道に進む前に働いていた飲食店でのエピソードだ。ベテラン店員ばかりの職場で委縮してしまい、接客の仕事がなかなかうまくできなかった酒寄さんは、ある日「お冷の置き方が雑」と先輩に指摘され、仕事終わりにバックヤードで居残り練習をすることになる。エアのコップにエアのお冷を入れて、エアのお客さんに向かって「お冷でございます! お冷でございます!」と叫び、コップを置く。「エア」というのは「エアギター」の「エア」と同じで、つまりはコップには水は入っていないしお客さんもいないのだけれど、お冷を出す真似をする、ということである。この空疎な練習はその後毎日、深夜まで続くことになる。
 
 私「お冷でございます! お冷でございます!」
 私は誰もいないバックヤードで考えました。私が今「サザエでございま 
す! サザエでございます!」と言っても誰も気づかないのではないかと。
 私「サザエでございます! サザエでございます!」
 私はその日、先輩が「もう帰っていいよ」と言いに来るまでサザエさんの練習をしました。
 私「上を向いて~あ~るこっおおおおおう~」
 私は社員時代、帰りの車の中で坂本九の『上を向いて歩こう』を歌いながらよく泣いていました(中略)。
 私「泣きながらああああるううううくうう一人ぼっちの夜うううう~」
 私は毎日が孤独でした。
 
 その後、飲食店を退職した酒寄さんはお笑いの養成所で田辺さんと出会い、「猫塾」というコンビを組む。そしてあの「エアお冷」をコントにして「キングオブコント」という大会の予選で披露するのだ。
 
 田辺さん「お冷でございます!! お冷でございます!! もっと回転きかせて!!」
 私「はいっ! お冷でございます!! お冷でございます!!」
 誰にも見られずに一人ぼっちでやっていたエアお冷を、田辺さんと2人 で、しかもたくさんの人の前でスポットライト(照明)を浴びてやる日が来るなんて、あの日は私は思いもしませんでした。私も田辺さんも先輩の教えてくれたステップで、飛び跳ねるようにエアお冷をやりました。(中略)
 その後、中身を変えてこのコントを何度か披露したことで、私の中で「エアお冷」は、辛かった思い出から、田辺さんと考えた常にややウケのコントに記憶を移し替えることに成功しました。
 
 何度読んでも泣けるが、思い出すのは山川藍の一首だ。

辞めたさの話をすればむちゃくちゃにウケられているわたし、噺家 『いらっしゃい』

 仕事を辞めたい理由を一生懸命に話しているのに、エピソードが面白いのか、はたまた語り口が面白いのか、聞いている相手は「むちゃくちゃにウケ」ている。知らないうちに「わたし」も笑ってしまう。苦しく辛い出来事が「笑い話」に昇華する。
「ユーモア」についてはこれまで何人かの執筆者が辞書を引いて説明してくれている。「諧謔」「おかしみ」「上品な機智にとんだしゃれ」。なるほど。山川の歌に関しても本誌二月号で立花開が「短歌界において「ユーモア」で山川藍の右に出るものはいないだろう」と書いている。私もそう思う。「噺家」の歌も、体験を面白おかしい歌に仕上げる短歌作者としてのユーモアを感じる。でも、山川の歌における「ユーモア」は、辞書に書かれているような言葉では説明しきれないものがあるような気がするのだ。
 
①ゆっきーと言い出す人があらわれてわたしも呼んだ一万円札(ふくざわゆきち)
②接客をしつつ涙がとまらないもういいや「はい、花粉症です!」
③背中痩せ運動おしえ合いながら群れで渡ろう横断歩道
④送別会一本締めは若松の依頼によって「にゃー」で締めたり
⑤今日はもう閉店ですがどの日にもマンガにできる瞬間がある


①と②は『いらっしゃい』収録の連作「R-28 きわめて一般的な正社員(女性)」より引いた。精神的に疲弊しながらも懸命に販売の仕事をし、七年務めた職場を辞すまでを描いた一連である。同じ連作中に「北海道物産展よおそるべし札を数えて指紋なくなる」という歌もあるのだけれど、①では福沢諭吉が描かれた一万円札のことを、同僚が突然「ゆっきー」と言い出す。あまりの忙しさにおかしなテンションになってしまったのだろうか。一緒に「わたし」も「ゆっきー」と呼ぶ。他愛もないが同じ仕事、同じ忙しさ、同じ辛さを共有する連帯が確かに感じられる。②いっぱいいっぱいになりながら仕事をしているうちに涙が溢れる。読んでいて胸が詰まるが、「はい、花粉症です!」に思わず笑ってしまう。悲しさから笑いまでの振り幅が大きいほど、切なさもまた増すのだと思う。③もおそらくこの販売の仲間たちとのシーン。横断歩道を、「背中痩せ運動」についてワイワイ話しながら、たぶん女性が多めの「群れ」で渡ってゆく。もしかしたら実際にその動作をしながら歩いているのかもしれない。描かれていないのに光景が鮮やかに浮かぶという点では④も同様だ。同僚たちが開いてくれた送別会。さいごは「にゃー」で締めましょうよ、いいね、猫好きの山川さんにふさわしい締めだね、なんて会話が聞こえてくるようだ。全員で輪になって「にゃー」。笑いが起こる。みんな、明日からはもう会わない人たちだ。③や④は山川の経験であるけれども「この感じ、知っている」と、共感や連帯を感じる人がきっとたくさんいるのではないだろうか。『いらっしゃい』が多くの人から支持されるのも、そのためだと私は思っている。⑤「どの日にもマンガにできる瞬間がある」とは山川短歌の真髄だと思う。一万円札を「ゆっきー」と呼ぶ同僚、花粉症のふりをして泣きながら仕事をしたこと、みんなで背中痩せ体操の話で盛り上がったこと、「にゃー」の一本締め、閉店後に電気を消す瞬間。そうした一コマ一コマのきらめきが、ときに人生の暗い道を照らす。

⑥骨壺にダイヤのネックレスかける 叔母に値段を言われふき出す
⑦火葬場へ向かう猫入りダンボール「糸こんにゃく」とあり声に出す
⑧「天国に行くよ」と兄が猫に言う 無職は本当に黙ってて


 ⑥は祖母の死を詠んだ「家に帰る」という一連から。「新品の祖母のバッグはしまわれて二階の奥で高級なまま」という歌もあり、お洒落なお婆さんだったことが伺える。葬儀一連が終わって、愛用のダイヤのネックレスを骨壺にかける。これまでの闘病の日々に思いを馳せたり、様々な記憶がよみがえる瞬間だろう。そこへ叔母が「そのネックレス、〇〇〇〇円だよ」。ふき出したり、笑い合うことで祖母の死にも一区切りがつき、新しい日々がまた始まってゆく。⑦⑧は飼い猫の死についての歌(それぞれ別の猫)。亡くなった猫を入れているダンボールにたまたま「糸こんにゃく」と書いてあったこと。それを見て思わず「糸こんにゃく」とつぶやいてしまったこと。悲しみのさなかに「天国に行くよ」なんていいセリフを言った無職の兄に(たぶん心の中で)ツッコミを入れたこと。死の深刻さや個人の悲しみとは別に、おかしみや笑いはいつでも生じ得る。それを一つ一つ拾い上げるのが山川の歌で、それらの歌に、読者はどれだけ心が救われただろう。
 
 山川の歌には確かにユーモアがある。日常に転がっている面白い瞬間を見逃さない動体視力と、それを一首に仕立て上げる歌人としての技と力量がある。でも私は山川の歌ににじむユーモアを、単なる「諧謔」「おかしみ」「上品な機智にとんだしゃれ」と解説したくはない。山川のユーモアの歌は(少なくとも、先に引いた歌たちは)、「いつか全部笑える日がくるよ」という希望の光を私たちに見せてくれる。酒寄さんが、バックヤードで孤独に繰り返していた「エアお冷」を、スポットライトの下で田辺さんと飛び跳ねながらコントにしたように、私たちも悲しみや苦しみを笑いに変えて、乗り越えていけるはずだ。「ユーモア」とは、そういう切実なパワーのこと。私の心の辞書にはそう書いてある。

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