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時評2021年7月号

物足りる歌

ベランダに垂れたるままの鯉のぼり春の陽ざしに光るうろこよ

 自作で恐縮だが、先日あるオンライン歌会に出した歌である。十一名が無記名で選歌したところ、二票であった。もう少し入るかなと自惚れていたが「物足りなさがある」という評にドキッとした。実際は小学校の壁に鯉のぼりが垂れていたので、初句を小学校としたものをまひる野に出したのだが、「光るうろこ」の部分を強調したかったので場所を限定することは止めた。場面設定が弱かったかと思っていたが、評を聞く内に「物足りない」とはそういうことではないような気がしてきた。どうやら初句から結句まで引っ掛かりがなく、すーっと読めてしまうため読み手の中に残るものがなかったらしい。言葉も意味もわかりやすすぎる歌なのだ。それでは「物足りる歌」とはどんな歌なのだろう。珍しく歌会が終わってからも考えている中で、心の花に所属する横山未来子の最新歌集『とく来りませ』のオンライン読書会に参加した。
 
 青竹の立ちならびたる冬の園にただ一人ゐてうごくわれの肺
 老い人がをさなきものに教へゐる草の名きこゆ塀をへだてて
 影となりあゆめる蟻を落としたり日傘の内を指に弾きて
 萩の葉に乾ぬ雨のあり日本画のなかをとほれる風に晒さる
 帰りきたる部屋の鏡につかの間をひとが見てゐしわれを映しつ

横山はその歌の端正な佇まいや、現実的でありながら少し地上から浮いているような、でもその浮き方が嫌味ではないところが魅力的な歌人だ。掲出歌はどれも日常の瞬間を切り取っている。一首目は「肺」という臓器によって、静かな冬の竹林と、音を立てながら生きる人間の対比が鮮やか。二首目は塀の内側にいて、老人と子どもの会話を聞いているのだが、教えているのが「草の名」というところから、姿の見えない二人に流れるやわらかな空気が想像される。三首目は日傘の内側に蟻の影が見えたので指で弾くというどこかユーモラスな歌。蟻の姿は見えないが「あゆめる」と丁寧に描写することで、日傘をじりじりと動く蟻の存在感が増している。四首目は日本画の中に萩の葉を濡らした雨を乾かすような風を感じている。風であれば「吹く」としたいところを「とほれる」と選択したことで絵の奥行きがぐっと広がる。五首目は、帰宅して鏡に映る自分は、外の世界で他人が見ていた姿だと感じる。しかし外の世界のことは「つかの間」でしかないと、内と外との境界がはっきりとしている。どの歌も決して派手な道具立てをしているわけではないが印象に残るのは、言葉が磨かれているからだろう。歌集になるまでに幾度も推敲されているのだと思う。長く歌を作っていると、無意識で使ってしまう手癖のような言葉が出来てくる。それは悪いことではないけれど、本当にこの言葉で良いのか、最後まで自分を疑いながら物足りる歌を作りたい。 

(後藤由紀恵)