見出し画像

時評2021年11月号

時評の賞味期限


 時評の賞味期限はどのくらいだろう。自分で書きながらそう思うことがある。本誌の時評は締切から二ヶ月後に掲載される。これを書いているのは九月だから、誰かの目に触れるのは十二月である。九月に書いて十二月に読まれるものが本当に時評と言えるのだろうか。こんなことを言い出したらキリが無いことは承知している。結社誌も総合誌も掲載までの時間差は当然だし、極論を言えばそれを感じさせない力のある文章を書けば良いだけだ。(それが出来れば苦労はしないのだけれど)もしも歌集評であれば半年や一年の時間差はあまり気にならない。歌は時間によってすぐに変質はしない。逆に刊行されてすぐにインターネット上に出る評は、本当に一冊をきちんと読んだのだろうかと穿った見方をしてしまうこともある。でも時評は違う。書き方はどうあれ、その時々のタイムリーな話題はインターネット上に出るものには敵わない。けれど紙媒体の時評が廃れないのはなぜだろう。そんなことを思っていたところに、短歌時評集と銘打たれた松村正直の『踊り場からの眺め』(六花書林)が刊行された。総合誌や新聞に二〇一一年四月から二〇二一年三月までに発表された時評、および時評に近い評論を集めた一冊である。あとがきの言葉がとても腑に落ちたので紹介したい。

 時評には瞬発力の勝負という面があって、その時々の旬でホットな話題を取り上げることが多い。新しい傾向の作品に対して真っ先に評価を与えるといった。役割もある。一方で、時評の多くは翌月になれば忘れられ、消えていく運命にあるとも言えるだろう。しかし、その時々に書いたことが本当に的を射たものであったかは、時間が経たなければわからない。何年か過ぎてから、あの時言っていたことは正しかったなと思うこともあれば、全く予想とは違った結果になることもある。そこで大切になるのは、後から検証される形で文章を残しておくことではないだろうか。それが文章を書いた者の責任でもあると思うのだ。

 瞬発力という面ではインターネットには敵わないけれど、検証という面から見れば書籍の方が残る確率は圧倒的に高い。今、各結社のホームページで時評をまとめて読むことが出来る有り難い時代になっているが、それでも半永久的に残るわけではないと思う。本書では、この十年間で松村が気になったその時々の話題が丁寧な筆致で書かれているが、東日本大震災や沖縄、口語など言葉の問題など、繰り返し触れられている話題も多い。また、東日本大震災をはじめとして、今なお終息していない原発問題や沖縄のこと、新型コロナウイルス感染症など、個人の人生には大きな喜びがあっても、その上を薄く薄く覆うように起こり続けている天災や人災が、年単位の時評を読むことによって迫ってくるように感じた。それは短歌が社会や時代と無関係ではいられない、という証でもあるように思う。一人の書き手の時評でこのように感じたのだから、実現は難しいかもしれないが、総合誌や結社誌で毎月書かれている時評をまとめたら、様々な目線から短歌を通した社会や時代が見えてくるのだろう。

 (後藤由紀恵)