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2024年年間テーマ「時事詠を考える」⑩

真実の情動  
     富田睦子

 
 それが恋の歌であろうが庭の柿の木を詠んだ歌であろうが、そもそも短歌は作者の生きる時代を映し出す。生身を生きる作者の、それを取り巻く風土、コミュニティ、常識や思い込み、景気経済、あらゆる社会的な出来事からくる気分を反映し、それぞれの佇まいや陰影を作り出す。
 そのうえで敢えて「時事詠」について考えようとするとき、それは「社会詠」というカテゴリのなかで特に、具体的な事件や災害、戦争など、個人の経験を超えた大きな「出来事」に接して詠まれた短歌のことだろうと思う。


   90・8・2
  侵攻はレイプに似つつ八月の涸谷(ワジ)越えてきし砂にまみるる   
        黒木三千代『クウェート』

   そして平成十二年、十七歳の少年が…
  普段着で人を殺すなバスジャックせし少年のひらひらのシャツ
        栗木京子『夏のうしろ』

  とりすがつて泣く姿おもひ描きつつ仕掛けたのか、地雷を、亡きがらに
        松本典子『世界の影絵』

  むざんやな をさなごの手にほのあかきヨウ化カリウム錠剤ひとつ 
        高木佳子『青雨記』

  何でこんな なんでこんなと思はれて鍋いつぱいに和布を湯掻く 
        梶原さい子『リアス/椿』


 時事詠を考えたときまず頭に浮かんだ歌だ。前の三首は事件や戦争について、後ろの二首は東日本大震災関連の歌である。

 黒木の作品は第一歌集の巻頭歌である。この歌は「レイプ」という言葉を、とくに女性が用いたことで批判を受けたらしい。表面的・短絡的であり業腹な反応であるが、三十年前という時代を鑑みそれを引き受けて巻頭に据えた黒木の強い思いを読み取ることを優先したい。この歌は「侵攻」と「レイプ」を重ねたことで戦争の大義名分やゲーム性を取り払い残虐性や支配欲を体感的に表して批判している。同時に、「涸谷」「砂」という乾燥を表す言葉が空虚さや生理的嫌悪を、さらに、「越えてきし」「まみるる」とその場に自分がいるかのような動詞の使い方によって体感を補強している。戦争の無慈悲さをうたうと同時に、動物的な欲望によって一方的に蹂躙されてきた女性たちの怒りも感じられ、一九九〇年のイラクのクウェート侵攻という具体的な出来事をうたいながら普遍的な魅力を持つ一首であろう。

 二首目は一首前に〈主義のため人殺したる少年は学生服着てゐたりき哀し〉と社会党委員長浅沼次郎が十七歳の少年に刺殺された事件を取り上げ、その犯人と比較することで思想や現実感が薄れ軽くなった命への尊重や犯罪動機を非難している。昔の方が凶悪事件は気軽に起きていたので同じ十七歳という点だけでこの二件の犯罪を比較することはやや無理があるものの、これは(おそらくテレビで)少年の姿を見たときに生じた栗木のまぎれない怒りであり、犯人と近い年齢の息子を持つ母が日頃から感じていた不安や苛立ちの表れ、時代への批判でもあるのだろう。

 松本の歌は二〇二二年からのロシアのウクライナ侵攻を扱う。同年四月ごろ、ロシア軍が占領地を離れる際に民家や遺体に地雷をしかけているという報道があった。人間はここまで残虐になれるのか、と胸が苦しくなるような現実である。「、」で一言ずつ区切った表現は、激しい憤りを伝える。報道ではまず「遺体に地雷がしかけられている」という事実のみが伝えられたはずだ。松本はそれを聞き、何のためなのかを想像し、「とりすがって泣く」人に向けた攻撃であることに思い至って愕然とした。上句の句またがりからはその思考の軌跡までうかがえ、作者と同じ怒りを読者に与える。人が人を思う気持ちを利用する点では「人間の盾」や「自爆テロ」と同質であり、その意味では既知の残虐性なのだが、「とりすがって泣く姿」と初句でまず生きた人間の営為を描くことで、あらためてその非人道的な攻撃への怒りを浮き上がらせている。

 時事詠ではしばしば「当事者性」ということが話題になる。時事詠は、情報収集能力、判断力、中立性、倫理観、思想や立ち位置など時に作者の人間性が問題になるが、それが現実に目前で起こった当事者としての描写であればジャーナリズム的な側面からも有無を言わせない。 

 高木の歌は原発事故による緊急措置として配布された「ヨウ化カリウム」を描く。コロナ禍におけるワクチンと同じで、人体にとって一定の危険があることは間違いない。飲まずに済むものであれば大切な子どもに飲ませたくはない。だが、そうしなければ命の危険があるならば、たとえ毒と分かっていても飲ませざるを得ない。その葛藤。コロナワクチンの是非を巡る今更ながらの諍いをSNSなどで見る現在、この歌は当事者にしか詠めなかった歌であると思わざるを得ない。

 梶原の歌は、津波で多くの人が攫われた海でとれた海藻を詠う。鍋の湯の中をいっぱいに泳ぐ和布は、水中に沈んだ人の長い髪がたゆたう様子を思わせる。これも、当事者ゆえの発想であるし、だからこそ食べ物と遺体を重ねる表現に是非を言わせない。

 では、事件、または戦争はどうだろうか。

 事件や戦争を当事者として詠める人は、この国にいては(幸いなことに)稀だろう。先に引いた三首も、いずれも報道を見ての作品だと推測される。でありながら、これらの歌は強い印象と情動を読者に与える。名歌であると思う。なぜだろうか。

本稿で結論が出せる気はしないのだが、例えばこのような歌はどうだろうか。

  焼け跡を歩きて溶ける靴底の臭いは想像できる できるか
       吉川宏志『雪の偶然』

  〈かねひで〉で巻餅(ちんぴん)買って炮炮(ぽーぽー)買って、辺野古に行こうと言い出せず妻に   大松達知『ばんじろう』

 吉川の歌は、「見もしないで歌う」ことへの警戒感が詠われている。戦場の過酷さを、無残さを、体感できるだろうかと自らに問いかけている。ゴム底の靴の焦げる匂いはこの国にいても想像できる。だが、それは本当に戦場の匂いと同じだろうか、と問いかける。

 大松の歌は、辺野古の移設問題そのものではなく多くの国民がそれを他人ごととして黙殺している現状を詠う。「かねひで」の社長は運動の中心人物。応援するつもりでその店に行って商品を買って食べる。でありながら、一番近い存在である妻に、辺野古へ行ってみようとは言えない。「せっかくの家族旅行」だからである。妻の政治への無関心はこの国全体の無関心と一致する。

 これらの歌は、誠実だと思う。報道を見て分かったつもりになって正義感を振りかざしスローガンか新聞の見出しのような歌を作るより、ずっと踏み込んでいると思う。間接的ではあるが、作者がどこに共感してどこを批判しているかわかるし、同時に誠実であろうとすればするほど閉塞してものの言いにくなる様を、表現者としての葛藤を、それでもなんとか表そうとする歌であると思う。

  絶望をした裕美さんがちからなく防犯カメラの画角を歩む
          目黒哲朗『生きる力』

  BVDのブリーフつけて血に濡れてかの日の川俣軍司いとほし
          島田修三『晴朗悲歌集』

  無差別ではなかったはずだ眼球は光を捕らえ躍ったはずだ   
          染野太朗『あの日の海』

 この三首はいずれも「通り魔」という通常ならば情状酌量の余地のない事件の犯人の側に思い入れた歌である。

 目黒の歌は、教え子であった女性がそこに至る過程を思い心を寄せる。島田の歌は、全裸で人を刺した凶悪犯の、ほんの少し残っている人間らしさ(実際は警官が渡したものらしいが)をブランドもののブリーフに見て憐れむ。染野の歌はこの事件を詠おうとする強い動機から発想されているが、その動機の中には「自分の生徒も、いや自分だってやりかねない」と思う危うさ、そこからくる犯人へのシンパシーが感じられる。

 被害者側から見たらとんでもない歌だろう。しかし、そこには、事件に触れて生まれたどうしようもない真実の思いが存在している。

 その点で、はじめに引いた五首、次に引いた二首とともに、詠わずにはいられないその瞬間瞬間の真実の情動がまぎれなく詠われているのだと思う。

 時事詠を考えていくとき、このあたりにヒントがありそうだと思うのだ。

 コロナ禍ではすべての人が当事者だった。四年を経てそれはようやく過去のものになりつつあり、同時に抑え込まれていた様々な問題が動き始めた。社会に目を向け、今いる場所から歌っていきたいと思う。

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