時評2021年9月号

終われない春


 東日本大震災から十年が経った。この三月は「節目」をキーワードに語られることが多かったし、それは何となくいいように収めようという力が働いているようで気持ち悪かった。この先、何十年経っても喪ったものは戻らないというのに。あれから四ヶ月、世の中は新型コロナウイルス感染症とオリンピックの話題で占められているが、今年も塔短歌会の有志による『3666日目 東日本大震災から十年を詠む』が刊行された。時評に間に合えば毎年取り上げているが、震災から約三ヵ月後の『99日目』に始まり一年目の『366日目』以降、毎年刊行され十冊めとなる。三月に九冊めまでをまとめた『3653日目〈塔短歌会・東北〉震災詠の記録』が出版されたから、十冊めはどうなるのだろうと思っていたが、巻頭の挨拶で梶原さい子はここまで続いたことは最初から意図したものではなく「終われなかった、というのが正直なところです。(号数が増えれば)震災のあの日から遠ざかることになるのですが、それに比例して記憶が薄れるかと言えば、そうではありません。」と記し、この冊子が今はまだ終われないと結ぶ。極私的なことだが、私は二十代の半ばから約六年間続けた祖母の介護を忘れることはない。自分の人生に大きな影響を与えたもの、それが喜びであれ悲しみであれ忘れることは出来ないし、それを抱えて生きてゆくしかない、とも思う。作品を引こう。

「まあまあの昔」を表す慣用句として「震災前」は言われる  逢坂みずき
語り部として話すひと話すたび娘を海に呑ませてしまふ  梶原さい子
小さき字で記しし歌のなかにゐて揺れ続け逃げ続くる我ら  小林真代
消費期限たしかめ買ひ替ふる非常食ならはしとなり三月がくる  千葉なおみ

 忘れることはないけれど、それでも生きている人たちには十年という時間が経った。そいういうことをしみじみと感じる。もしかしたら時間が経つこと自体が苦しみになることもあるのかもしれない。遠く離れてしまった人たちへ罪の意識を持つこともあるのかもしれない。短歌は小さな器だけれど、それでも零れ落ちるかすかな感情を受け止める器であると信じたい。
 もう一つ。二〇一三年に刊行された三原由起子の第一歌集『ふるさとは赤』の新装版が刊行された。三原は福島県双葉郡浪江町の出身。歌集は十七年間の歌を収録しているが、歌集名は第三章「2011年3月11日後のわたし」に収められた歌から取られている。

 iPad片手に震度を探る人の肩越しに見るふるさとは 赤
 「十年後も生きる」と誓いし同窓会その二ヶ月後にふるさとは無し
 「元気だよ、被爆してるけどね」って笑顔の絵文字の返信メール

 初めて読んだ時は怒りを強く感じたが、あらためて読み直すと怒りの底にある諦念に気づく。これが時間が経つということだろうか。十年を経て三原は故郷を喪い、浪江町では多くの地域がいまだ帰還困難区域となっている。この現実を、「節目」で括ってしまうことの危うさを感じた二冊であった。 (後藤由紀恵)