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時評2022年1月号

短歌結社とは何か
            

 「短歌人」二〇二一年十一月号の特集〈結社を考える〉が面白かった。戦前から戦後を経て発展した「短歌人」の成り立ちや変遷も興味深かったが、結社一般への考え方としても何点か紹介したいポイントがあった。
 まずは「会員アンケート」の川田由布子の「締切、人とのつながり、定期的な発表の場、選歌、相互批評の機会などは結社だからできることではないか」との言葉を押さえておきたい。短歌に興味を持ち、継続的に続けていく方法を考えるときに初学者はたいていこのような面から「結社」という組織に興味を持つだろうし、実際に結社所属のメリットと言えるだろう。
 さらに、このなかの「選歌」「相互批評」に特に目を向けているのが生沼義朗「〈個〉を磨く〈集団〉」だ。

 「短歌人」に限らず短歌結社の役割は、とどのつまり選歌を経ての結社誌における作品発表、および歌会という二つの重要な研鑽の場を設けることである。

から始まり、

 結社誌は単に作品発表の媒体ではない。結社が今でも存在して人が集まるのは、結局は他者の眼に晒されることで作品を、ひいては自分自身を磨くためだ(以下略)

と結ぶこの論旨を、紙幅の関係でまとめると(「短歌人」はスポット購入ができるのでぜひ原文をお読みください)、

・他ジャンルと異なり短歌俳句には未だ結社や師匠の存在が大きい。
・これは茶道や華道、武道などにも通じる日本的な現象だが、現実としてジャンルに合ったメカニズムである。
・一方で創作は作者が全責任を負う孤独な営為でもある。
・それは大岡信『うたげと孤心』で述べられているような、「合す」原理と、それに密接に結びつきつつ相反する「頼るところのないさびしい心(孤心)」、つまり「集団」と「個」のバランスによって成り立っている。

 というものであった。
 私自身、結社と作家性、もしくは創作と選歌・添削について考えたりもするのだが、そもそも選歌という批評システムが詩型と繋がるとする論には、なるほどと思うのだった。
 一方で、「締切、人とのつながり、定期的な発表の場、相互批評の機会」があって「選歌」がない場も実は存在する。同人誌である。
 「私の結社の経験から」を書いた梶倶認ははじめどの組織に属するか迷ったようだ。
〈「かばん」は楽しそうな感じがしたが、中山さんら創刊した六名の同人誌という印象があって、これに参加することは考えられなかった。〉
との記述は「かばん」の創刊当時の空気をよく表して面白い。

 短歌雑誌は寄稿者によりレベルとカラーが決まる。選者が責任を負う結社は選者のレベルとカラーが概ね雑誌のレベルとカラーになるが、それゆえ誰でもが出詠し冒険できる公平性を持つ。選歌がなくいきなり発表である同人誌は、文法や漢字の誤りも、意図せぬ差別意識も、稚拙さも、すべて自分の責任でそのまま掲載される。参加者は最初からよりシビアで自覚的な場に立たされるが、それを自由と呼ぶ人もいるだろう。 
 この比較も結社を考える一となるだろう。

(富田睦子)

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