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年間テーマ〈特集「都市を詠む」〉②

花の都から 

           後藤由紀恵


 花の都、と聞いて浮かぶ都市はどこだろうか。パリ、ロンドン、ニューヨーク、いずれも当てはまりそうだが、私は断然「大東京」である。一九八八(昭和六十三)年、私が十三歳の時にテレビドラマの主題歌として大ヒットした長淵剛の「とんぼ」という歌の一節が見事に刷り込まれている。(因みにドラマは見ていないし、一曲を歌える訳でもない。)「とんぼ」の歌詞の若者は東京に憧れ、夢破れてなお東京を愛し憎んでいるようだが、かつて東京は立身出世の夢を叶えようとした若者たちの憧れを一身に背負っていた。そんな若者たちの一人に石川啄木がいる。
  
ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく
         (原文は三行わかち書き)
『一握の砂』の有名な一首である。上野駅の混雑の中へ故郷岩手の訛りを聞きにゆく姿には、都会で生きる寂しさがある。というのが素直な解釈だと思う一方で、私はこの歌に啄木のポーズを感じてならない。何だか嘘くさい芝居のようだなあと思ってしまう。故郷の訛りが懐かしい気持ちに嘘は無いだろうが、寂しくなるのはわかっていて何故わざわざ聞きに行くのだろうか。むしろ故郷の言葉を聞くことによって、東京でいずれ成功するだろう自分を意識したい、そんな気持ちが働いているように思う。「東京で生きる我」への強い自負心から「故郷が恋しい我」を作り出したように感じるのだ。ひねくれすぎだろうか。時代はくだり、同じく故郷の訛を詠んだ寺山修司の一首はどうか。

故郷の訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし 
             『われに五月を』

『われに五月を』は寺山が二十二歳であった一九五七(昭和三十二)年に出版した、詩や短歌、俳句、散文などを集めた作品集である。掲出歌はその一年後の歌集『空には本』にもおさめられている。ここには都会の暮らしに馴染み、訛りが出なくなった友達への苛立ちがある。その姿は近い将来の自分でもあることに気づいているのかもしれない。この歌の前に「一粒の向日葵の種蒔きしのみに荒野をわれの処女地と呼びき」が置かれているが、故郷を捨てることへの苛立ちと、しかし捨てなければ処女地を得ることは出来ない葛藤が、都会を象徴するような「モカ珈琲」を苦くさせているのだろう。後に寺山は演劇の世界で活躍するが、この歌には啄木ほどのポーズは感じられない。
     ※
 上京の目的が何であれ、東京は多くの若者の夢や野望によって肥大し、やがてこのような形を迎える。

大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋
          俵万智『サラダ記念日』

 
『サラダ記念日』が刊行された一九八七(昭和六十二)年、日本はバブル景気を迎えようとしていた。東京には消費への明るい空気が満ちていたことだろう。俵の歌には啄木や寺山のような鬱屈や葛藤は感じない。大学生として東京に暮らし、東急ハンズがあるから、買い物をするお金があるから、ただ買い物をする。そして楽しく満ち足りた気分になる。この歌には、屈託なく東京を楽しむことを素直に享受する若者の姿がある。また、今回のテーマを考える際に参考とした、黒瀬珂瀾の編集によるアンソロジー『街角の歌』にこんな歌を見つけた。
  
ジィンズの似合へるはここ竹下通りをとこをみなの恋囁けり
        三國玲子『翡翠のひかり』

 歌集は一九八八(昭和六十三)年刊なので、歌の場面は『サラダ記念日』と同じくバブル景気の直前あたりだろうか。お洒落なジーンズ姿の若者らで賑わう竹下通りをひとり歩く、当時六十代の三國の視線は彼らの若さを羨むようである。かつて誰かに囁かれ、自分も囁き、そしてもう囁くことのない愛の言葉を思い出しているのかもしれない。「ただ一人の束縛を待つと書きしより雲の分布は日々に美し」に代表される硬質で理知的な眼差しが、消費へと一直線に向かう当時の東京の描写する。けれど歌集刊行の前年、自ら死を選んだ三國の生涯を思うと、竹下通りを歩く若者たちもいずれ老いて死を迎えることの当然に思いを馳せていたのかもしれず、明るく賑やかな竹下通りが灰暗い翳に覆われるようでもある。一方、同時代の東京に対して底知れぬ虚しさを詠んだ歌もある。

夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで
      仙波龍英『わたしは可愛い三月兎』

 題材となった渋谷パルコが出来たのは一九七三(昭和四十七)年、歌集が出た一九八五(昭和六十)年にはパート1、2、3と3つの建物が渋谷に若者たちを集めていた。当時の仙波は三十三歳。まだ若さの余韻が十分に残っていたことだろう。そんな彼が消費の象徴として君臨するパルコを見上げる眼差しは暗く、まるでバブル景気の終焉を見透かしているようだ。歌を作る時、時代の影響を避けることは出来ない。作者が意識する、しないに関わらず、歌は作者の生きた時代の空気をまとう。そしてその空気は後世の読者になればなるほど感じられるのだと思う。当時の社会状況を含めて読むことで、俵の歌の明るさや仙波の歌の暗さはより際立つし、啄木や寺山の歌と比べることで、東京という都市は時代の空気を感じやすい記号だということに気づく。

           ※

 私も「とんぼ」の青年と同じく大東京に暮らして十年近くになる。書きながら自分でも驚くが、私の生活に「花の都」の部分はまったくない。東京と埼玉の境、ぎりぎり都内の木造アパートの狭い部屋に本の増殖に怯えながら住み、毎朝五時半に起きて一時間弱ほど電車に揺られて仕事にゆく。定時まで働いて、うんざりしながら時に残業して、また一時間弱ほど電車に揺られて帰る。駅前のスーパーで、気力のある時は自炊するため、ほとんどの日はお惣菜を選んで帰って食べて寝て、また五時半に起きて、そうして平日が過ぎる。土日は昼近くまで寝てしまうことを自分に許し、溜まった家事を片付ける。節約のためにも週末はなるべく自炊する。そしてまた月曜が来るのだ。書いていて自分でも笑ってしまうが、本当に変化の無い地味な生活だ。たぶん故郷の愛知県にいても同じような暮らしになると思う。東京に対する啄木や寺山のような野心も、俵や仙波の明るさや虚しさも、今の私には無い。

マスクしてゐない人こそ病んでゐるそんな気がして山手線車内
         水上芙季「COCOON」十八号
水母洗ふやうにマスクを洗ふ夜あさつての感染予防のために

 最近の歌から引く。「COCOON」はコスモスの結社内同人誌である。今年(二〇二〇年)の初めから、新型コロナウイルス感染症によって私たちの、私の生活は一変した。気づいたらマスクが品切れになり、在宅勤務にも慣れた頃に夏を迎え、感染者数が日々増えて容易に帰省できない冬を過ごしている。一首目、今、電車の中でマスクをしていない人はほぼ見かけない。もし見かけたらそっと車両を変えるだろう。山手線は東京の中心を走る環状線だが、スタートもゴールもないまま循環する車内に、見えないものへの恐れが増幅してゆくような怖さがある。二首目、洗えるマスクがこんなに流通したことは今まで無かったし、そもそもマスクを洗う、という概念が私には無かった。一日を終える夜、手洗いでやさしく洗うマスクは、家に籠もるわけにはいかない明後日の私を守るためにある。一首目には現在の東京の、二首目には日本の姿がある。

          ※

 私の暮らしは他の土地でも成り立つことは前述したが、その意識を増長させたのは皮肉にもコロナによって生活が変わったことにも一因があると思う。暴力的な勢いで始まった自粛生活は、インターネットがあれば家でも会社と同じように仕事が出来て、買い物も、飲み会も、歌会さえも出来ることを気付かせた。そうであれば感染症に怯えながら東京に住まなくても良いのではと思う人は多いだろう。実際に某大手人材派遣会社が本社機能を淡路島へ移すそうだし、会社をバーチャル空間へ移したニュースも聞いた。画面越しの会話には限界があると思うし、飲み会は楽しくなさそうだけれど、今いる場所が人生のすべてではないことを改めて感じた一年だった。もちろんこう思えるのは私が恵まれているからだということは承知している。東京で暮らすことに絶対的な理由が無いまま暮らす中で東京を詠むことに意味があるとしたら、今という時代の空気を後世に伝えるため、だろうか。読まれなければ意味が無いのだけれど。

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