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10月号時評

   肉体に触れている強さ

 今年の短歌結社の全国大会は軒並み中止となっているが、そんななか「かりん」は代替シンポジウムをオンライン会議システムZOOMを使って開催し、事前申し込みによって外部にも公開された。ZOOMは、同時に複数の人間の声を拾えない欠点があるが、シンポジウムはもともと一人ずつ話をするものだからか思った以上に違和感なく議論が進められ、ひさしぶりに頭の中の短歌筋肉が動く喜びを感じるひと時だった。同時に私は去年も外部公開された「かりん」の全国大会の登壇者のひとり中山洋祐さんの発言を思い出していた。中山さんは、藤島秀憲さんの短歌について「介護を経験しているからか、この人の歌には実際に人間の肉体に触れている強さがある」と言った。その時には意外な切り口に驚いてこころに残ったのだが、このような人との接触をできる限り排する生活をしているとじわじわとその言葉が蘇ってくるのだ。


  備品として登録さるるロボットに「添ふ」といふこと教へてゐたり
  百歳に無念はいくつあるだらうたゆたひながら潮はひきゆく
  たんたんと過ぎゆく日々といふときのたんたんはわれの菜を刻む音
  はろばろとアサギマダラはかたなびく早吸の瀬戸を染めてわたり来
          (早吸→はやすひ)


 今年のまひる野賞受賞作の伊藤利惠「春の輪郭」から引いた。伊藤さんも介護の現場で働き、人の肉体に触れている人である。詩情の豊かさと共に命への畏敬が感じられる作風が高く評価され、引用歌からもそれは伝わる。伊藤さんの歌には実体が備わっている。頭の中で作った歌とは違う。そう、確かに「肉体に触れている強さ」がある 

  食べるにも体力がいるひとたちに軟飯・お粥・重湯をつくる
  唐突に乱切りされたる大根のあまた面がうろたえている
          (面→おもて)
  私にもこんなパワーが欲しいのよ 乾燥わかめ三倍となる
  たくさんの足あと残した寝たきりの人の足裏 触れてもいいか


 大森千里『光るグリッド』から引いた。大森さんは看護師で、医師である夫の開業する医院で働いている環境から食事を作るなど幅広い業務を担っているようである。
 彼女の歌はややカジュアルでユーモアのある作風だが、その中にやはり命への敬意や実在することのたくましさを感じる。どこが、ということを一首ずつ分解して述べることはできるかもしれないが、それでは言い切れない大きくて温かなものが背後に見える。
 こういうものを背後に抱えるのが詩歌なのかもしれないなあと思う。言葉で解説できない、けれど読む人が共通して抱く、ダイレクトに脳に届く「あたたかな印象」が彼女たちの歌にはあるように思う。それはどこから出ているものだろうか。私自身また考えている途中である。 
 こういうことを考えるのも、人と接する機会が失われているからかもしれない。今はオンラインでも何もないよりずっといい、と思っている。しかし、これが長期化した時、短歌も何かが変わってしまうのかもしれない。

                          富田睦子

大森千里第一歌集『光るグリッド』青磁社刊・2020.7.24(2000円+税)