見出し画像

時評2022年2月号

百人いたら

 「歌壇」二〇二二年一月号の特集「短歌の活路」に掲載された奥田亡羊「短歌地図が違う」が興味深かった。
 学生ら若い作者と交流する中での違和感を綴ったもので、非常に勉強熱心で博識な彼らがなぜか岡井隆を読んでおらず、また、「奥田さんの世代はライトヴァースの影に隠れてあまり読まれていないのではないですか?」などと言っている。奥田は一九六七年生まれだから、その世代と言うと吉川宏志・梅内美華子・大口玲子・横山未来子・松村正直・江戸雪・高島裕・大松達知・島田幸典・松本典子など脂ののりきった世代にあたる。彼らが目に入っていないのか、という疑問である。
 締めくくりの「斎藤茂吉・北原白秋・釈迢空・前川佐美雄・佐藤佐太郎・斎藤史・宮柊二・塚本邦雄・山中智恵子・前登志夫・岡井隆・馬場あき子・寺山修司・佐佐木幸綱・春日井建・高野公彦・伊藤一彦・・・、これらの歌人のうちだれ一人として興味を持てないならば、それは短歌の形を借りた別のことをやっているのだと思う。結果、歌壇が分裂してもかまわない。短歌は百人いたら続くものだ」は爽快であると同時に少し切ない。

 歌集や歌人へのアクセスが、今とくに難しくなったとは思わない。私が短歌を始めた三十年前にも、町の本屋には一冊の歌集も短歌雑誌も置いてはいなかったし、図書館の開架には古典和歌や入門書がせいぜい。だから、結社など人とのつながりが必要だったのだ。
 人と人との関係の中では「知らない」ことは引け目になるから、先輩後輩の尊敬・指導の関係というのは単に歌が上手い下手というだけではなく知識の多寡もあった。どんなに新鮮な作品を作ろうと、当然に読むべき歌人を読んでいないというのは、なにかが抜け落ちている、恥ずべきことだったのだ。
 インターネットはその在り様を変えた。先輩も後輩もなく検索す(ググ)れば、その場しのぎの断片的な知識はだいたい手に入る。ググって出て来ないようなことは知らなくても恥ではない。「当然に読むべき歌人」などというものは存在せず、時代背景も歌壇史もなくただ作品と、せいぜい作者のプロフィールが存在している。
 私は肯わないが、そういうフラットな認識が生まれることは状況としては理解できる。
 時代から、いや、媒体から作者や作品が影響を受けるのは当然のことで、宮中に侍り紙や墨を手にできた一部の人の作品を手書きで読んでいた時代から活版印刷・ガリ版印刷の時代ではずいぶん変わっただろうし、そこからインターネットを媒体とできる現在はまたさらに違ってくるだろう。

 この十二月、書評家の豊崎由美がツイッターで「わたしはTikTokみたいなもんで本を紹介して、そんな杜撰な紹介で本が売れたからって、だからどうしたとしか思いませんね。そんなのは一時の嵐。一時の嵐に翻弄されるのは馬鹿馬鹿しくないですか? あの人、書評書けるんですか?」と発言し、いわゆる「炎上」状態になった。私はこの発言と奥田の疑問は根を同じくすると思う。しかし、豊崎のツイートは最後がよくない。豊崎は「結果、文壇が分裂してもかまわない。書評は百人いたら続くものだ」と書くべきだった。

 この雑多で混沌とした海の中では「誰に向けて、どこに向けて表現するのか」という自我を確固として持たなければ泳ぎ切ることはできないだろうと思う。
(富田睦子)