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年間テーマ〈特集「都市を詠む」〉①

  都市の見せる顔  

          広坂早苗 

 都市と文学といえば前田愛を思い出す。前田が早世したのは私が大学生の時だったが、死の前年の一九八六年に出版された『幻景の街』がおもしろかった。「文学の都市を歩く」という副題が付されているエッセイ集で、文学作品に描かれた都市(主に東京)を前田が実際に歩き、作品内容と舞台である都市の結びつきについて読み解いてみせるものである。学生の私はその鮮やかな考察に感嘆し、友人を誘っていくつかの街を歩いてみた。大岡昇平の『武蔵野夫人』の舞台となった場所近くに仲の良い友人の家があったので、泊めてもらったついでに周囲を歩き回り、既に人妻である女主人公が復員した若い従弟への恋を自覚する契機となる地名「恋ヶ窪」周辺の国分寺崖線などを眺めたことを覚えている。
 しかし、前田が『幻景の街』のあとがきで記しているように、言語で記された文学作品のなかの都市は、どれほどリアルに描かれていたとしても現実の街そのものではなく、作者の創った「幻景の街」であることをまぬかれない。また都市は生き物で変化のスピードは速く、作中の街の姿はその作中にしか生きながらえることができない。そういう意味で、作品に息づく都市の姿と現実にある都市の姿を比べながら作品を読むのは、興味深いことではないかと思う。

 前田が現実の街歩きから作品世界を「復原」(『幻景の街』あとがき)しようとしたのに近い姿勢を感じるのが、田中拓也の第四歌集『東京(とうけい)』(二〇一九年)の巻末近くの一連である。

  亀戸
 空襲の後の亀戸駅前の焦土を思う 雨降り始む
 変わらざるものはあらざり暗緑の川面にぼうと魚が浮かびぬ
 霧に煙るスカイツリーに灯りたる青き光が鈍く輝く
  錦糸町
 錦糸町駅南口ひそと建つ伊藤左千夫牧場兼住居跡の碑
 ビル風に微かに揺れる夏草に潜みしものの声を聴きたし
 銀色に照りたるi Phoneの看板の端で土鳩は羽を休めて
 空高く伸びゆく白き雲の間の機影はしんと消えてゆきたり

 歌集の後記によれば、田中は大学卒業後長く暮らした水戸を離れ、現在は東京で働いている。そのせいか、これらの東京の街を歌った歌にはどこか旅人の視線が感じられるのだが、それ以上に、田中がそれぞれの街の現在の姿に、その街の過去を見いだそうとしている点が興味深い。戦争末期の焦土と青く光るスカイツリーがともに見え、ビル街にいて牧場があった昔を語る夏草の声を聴く。こうした重層的な都市の見え方は、田中が左千夫歌碑の建つ学校で働く歌人であることと無関係ではないだろう。そして読者である私たちは、都市やそこに生きる人々に流れる時間というものをしみじみと感じることになるのだ。
 一方、 小佐野彈の『メタリック』(二〇一八年)に歌われる東京の街は、田中が歌う東京の下町とは全く異なる。

 ゐなくなつてしまはう、なんて思ひつつどうにか通る自動改札
     東急大井町線
 各停は五両編成 しろがねの車両に「自死」の中吊りゆれる
    西新宿
 凍てついた滝のごとくにビルならび色とりどりの裸身を映す

    新宿二丁目仲通り
 曇天が崩れはじめる 筋張つた指と指とが微かにふれて
 二丁目の横は五丁目 さまよへる誰もがはらむ褐色の水
     花園神社    
 性愛が淡雪のごと舞ひ降れば真つ赤に染まりゆく通学路

 『メタリック』は、セクシュアルマイノリティをテーマにした一連で短歌研究新人賞を受賞した小佐野の第一歌集である。掲出の歌はその中の「メタリック」一連から引いた。この世から消えてしまいたい苦しさ、中吊り広告の「自死」の文字に反応する不安定さを抱えた若者が、やっとの思いで生きる場としての街が描かれる。西新宿の高層ビル群が性別も人種も不詳の冷たい裸身に見えるのは、性的少数者ゆえの疎外感や不全感に起因するものだろう。「筋張った指と指」は男同士を意味するものか。祝福されていないとの思いが若者を苦しめる。「真つ赤に染まりゆく」というのは性愛の過剰さを印象づけるが、それらの作品に付された「新宿二丁目」「花園神社」といった街や場所の名は、苦しむ若者を許容し、生かす装置として機能している。小佐野の目に見える新宿の街は、社会への怒りや苦悩を抱えた若者を支える場としての都市だと言える。
 次に取り上げる稲葉京子の『椿の館』(二〇〇五年)は、都市に暮らす子育てを終えた女性の家庭生活が主題となっている。全歌集の年譜に拠れば、夫の転勤に従って東京、大阪などを転々とし、やがて横浜に定住した後の作品ということになる。

 ビル群の涯底に仰ぐ紺青の切り絵のごとき夏の夜の空
 迎へ火を焚くところなきマンションの盆に思へば見ゆる死者たち
 マンションは音を拒むといふならず夜更け天より来る風聞こゆ
 ビルの間濃く翳りたる夕ぐれの川面を鴨はうつむきてゆく
 マンションの狭き空間に夫と住む今一人誰か居る気配する

 都市の高層マンション暮らしの折節が歌われているが、この作者独特の世界が広がる。迎え火を焚くことのできない暮らしゆえ、火を焚かずとも思うだけで死者が見えるという。また天からの風が聞こえ、姿の見えぬ誰かの気配がするのだという。稲葉の歌う都市の高層マンションは、この世とあの世を自在に行き来できるような不思議な場所に思える。夕暮れに高層の間の川をゆく小さな鴨も、もしかしたら異世界からやってきたのかもしれない。そんなことを思わせる不思議な空間は、稲葉の幻視が創りだしたものに他ならない。

 ところで、都市と言えば首都圏ばかりではない。私の暮らす中部地方では名古屋市が最も大きな都市であり、歌人も多く居住している。加藤治郎もその一人で、彼の著作である『東海のうたびと』(二〇一六年)の第二部には、名古屋のいろいろな街を詠んだ歌三十七首がエッセイとともに収められている。

 わがままな貴婦人に似た紅のパノラマカーよ歌いつつ去る
 人間百年といえども今日は恋人とゆめの万松寺通をゆかな
 古書店は雨の蒼さとなりにけり塚本邦雄『淸唱千首』
 海風が背中をおせば寂しさの旅人はまた歩きはじめる 
 どこの国より追放されたか陶片のようなあわさにキリン立ち居り 

 東京や大阪ならいざ知らず、名古屋の名所を丁寧に取り上げた作品は珍しいので、朝日新聞連載時から目に留めていた。真っ赤な名鉄パノラマカーの歌、東山動物園のキリンを詠んだ歌などは、比喩の鮮やかさが目立つ佳作である。繁華街・大須の万松寺は織田信長の父が創建した織田家の菩提寺。古書店街は鶴舞にあり、海風の歌は七里の渡しである。加藤の作品は、歌枕や題詠など伝統的な和歌の手法に近い作り方をしているのだが、一首一首の背後にかすかな作者の気配が見え、淡い詩情の感じられる点がよい。
 その加藤が監修した『平和園に帰ろうよ』(二〇一九年)は、名古屋市在住の小坂井大輔の第一歌集である。

 宝籤が当たった人も即自害するような街で生まれ育って
 頼んではいないピザ屋の配達が今日も来る夕焼けを背負って
 駆けてゆく天狗のような浮浪者の足の裏ものすごい真っ黒
 熟睡したオヤジが熟睡していないオヤジに凭れる朝の地下鉄
 分別をする手を止めて自分ごと入った燃えるゴミの袋に
 過払い金請求の文字蠢いて頭突きしたくなる満員電車

 小坂井は、前述の小佐野より三歳年長のほぼ同世代。頼まないピザが勝手に配達されたり、天狗のような浮浪者がいたりする無秩序な名古屋の街に、ある日は自ら可燃ゴミになってしまいたい絶望に囚われながらも、懸命に生きる姿をやや過剰に歌う。彼の生きる都市には詩情などなく、あるものは猥雑なエネルギーだけである。みだらで品のないこの街のエネルギーが、しかし作者の歌と生を支えているように感じられるところがおもしろい。
 同じく名古屋市在住の辻聡之は小佐野と同い年で、二〇一八年に第一歌集『明日の孵化』を上梓している。

 野菜ジュース満ちて光れる朝々を渡れネクタイを白き帆として
 感傷を洗うごと雨、飛ぶひかり、ぼくの声だけ明るいスタバ
 ビル風に巻かれいるとき風の谿だれの耳にもありてさざめく
 交通事故死者数ワースト1の街 一日〇・五八人死ぬ
 新聞紙いちまいほどの厚さにて隔てられおり 皮膚と街並み 

 小坂井より三歳下の辻の歌は端正で、語彙も修辞も洗練されている。歌の背景にある街は、交通事故死全国ワースト1であろうとも、小坂井の歌の舞台とは対照的に明るく、清潔で、落ち着いている。小坂井のような破れかぶれのエネルギーはないが、その代わりに知的で思索的であり、ぎりぎりのところで他者を侵食しない紳士的な都市で、バランスをとって生きる繊細な若者の姿が立ち上がる。
 都市といってもその顔は一様でないが、その街のどんな顔を歌うのか、それは作品の主題と大いに関わっていると改めて感じた。

(「まひる野」2021年1月号)


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