年間テーマ〈特集「都市を詠む」〉⑧

疎外と倦怠、あるいは犯罪
       滝本 賢太郎


ご隠居「おお、熊さん、そんなに息せき切ってどうした?」
熊五郎「いやね、ご隠居、都市詠について一席ぶってくれと言われたんですが、全ッ然浮ばなくて」
隠「ふむ、都市詠か。しかしそいつは難しい、お前さんが慌てるのも無理はない。だいたい都市なんてもんは、幻みたいなものなんだ」
熊「幻ですか?でもご隠居、あたしら都市も都市、大都市って言われる東京に、現にこう、いるじゃないですか」
隠「たしかにそうさ。しかしその都市って、人が大勢住んで、高いビルだのなんだの、にょきにょきあって、交通網が発達していたらそうかえ?熊さん、お前さん、ミュンヘンについてどう思う?」
熊「ミュンヘンって、外国の?ナチスの街、ですかねえ」
隠「おいおい、今は令和だよ。まあ令和の一億総活躍社会とキラキラネームが成人する時代に、ご隠居も熊五郎もないんだが。いいかい、ミュンヘンはドイツ第三の大都市だ。地下鉄も走っているし、文化施設も多い。勿論ビルだっていくらもある。ところが内も外も、バイエルン王国ミュンヘン村、人口百万人の村なんて言う。人口上位のベルリンやハンブルクはやっぱり都市だ。何が違うと思う?」
熊「ミュンヘンとベルリン……。あの、ドイツは南北で人間が違うなんて言いますね。北は早口で南はゆっくり喋るとか」
隠「そう、それ、速度ですよ。ミュンヘンには速度がない。これは都市の根幹に関わるんだ。都市というのは様々な要素から成り立っているが、なによりも速度だ。そして技術。技術ってのは、流通、交通、メディア、インフラ設備全部ひっくるめてだ。で、これらを迅速に行うための合理化と、それを可能にする資本。この資本にくらくらっとくる欲望と、それを誘う猥雑さ。大雑把に述べてもこういった要素が奇々怪々と絡み合うのが都市なんだ。だから都市を実体として捉えないほうがいい。さながら、複雑怪奇な構造の幻灯機が見せる幻みたいなもので……」

……なるほど、都市は複雑だ。ある歌を都市詠として語るとき、きっと歌の作者よりも鑑賞者の都市観の方が雄弁に表れてしまうだろう。で、わたしにとって都市とは、人間疎外とその抵抗の現場らしい。都市について考えるうち、この一首が響いてくる。

毒入りのコーラを都市の夜に置きしそのしなやかな指を思えり
                  『臨界』谷岡亜紀

 誰にでもできるこの犯罪は未だ解決していない。犯人はコーラの缶を置き、素知らぬ風で立ち去り、また普通の生活を送る。谷岡は犯人への共感を隠さないが、歌の焦点は犯人に合わせない。どころか犯人の個別性を消し、その指に照準を定める。この指こそが都市生活者が犯罪者へと愉快に転ずる一瞬を表しているからだろう。
 都市生活者を別の言葉で言えば大衆である。都市生活という渦の中、顔も名前もない、入れ替え可能な文字通りの「人材」である。そこに人間疎外を見るのは正しいが、都市とはそもそも疎外の上の永遠の膨張を宿命づけられている。
 それは近代都市が発達を見せた二十世紀初頭から変わらない。社会学者ゲオルク・ジンメルは、古典的都市論「大都市と精神生活」において、ベルリンの人々から都市生活者の特徴を観察する。中でも興味深いのは、倦怠についての考察である。ジンメルは大都市を神経生活の高揚の場と捉える。都市を歩けば、視覚や聴覚をはじめ、様々な情報がひっきりなしに押し寄せる。一時はそれも刺激的で楽しいが、都市生活とはこのような五感の刺激のみならず、経済、職業、社交生活の刺激、また疎外に常に晒される暮しである。その結果、いつしか強い刺激にも反応できなくなる。これをジンメルは倦怠と呼ぶ。注意すべきは、倦怠が過度の刺激によって現象を知覚できなくなるのではなく、知覚はできるがそこに価値を見出せず、全てを無価値と感じるに到る状態と見る点である。倦怠に陥った人々が求めるのは結果、ショッキングだが無害なものとなる。ワイマール文化の鍵語の一つ、エロ・グロ・ナンセンスはその好例である。

「何か面白い事は無いかねえ。」という言葉は不吉な言葉だ。この二三年来、文学の事にたずさわっている若い人達から、私は何回この不吉な言葉を聞かされたか知れない。無論自分でも言つた。――或時は、人の顔さえ見れば、そう言わずにいられないような気がする事もあった。
   (石川啄木「硝子戸」)


 面白いことはないか。当時のベルリンでも、現在の東京でも延々繰り返されている問いかけである。石川啄木はこれをジンメルのように倦怠とは言わず「凡ての人間の心に流れている深い浪漫主義の嘆声」と呼ぶ。都市の人々は一体何に「面白いこと」を見るのだろう。あるいは啄木の影響下で紡がれた以下のような歌だろうか。

殺すくらゐ 何でもない/と思ひつゝ人ごみの中を/潤歩して行く
よく切れる剃刀を見て/鏡をみて/狂人のごとほゝゑみてみる

 夢野久作「猟奇歌」から引いた。猟奇歌は元々、雑誌「猟奇」の企画した一ジャンルだった。猟奇的な材を求めるそのテーマ設定と夢野の気質が合致し、彼は多くの作品を残している。
 作風はいかにも夢野らしい。しかしよく読むと、表層の露悪趣味、猟奇趣味を貫くこの明快さは、「瓶詰地獄」や『ドグラ・マグラ』の夢野とは無縁であるとも気づかされる。彼の描く狂気の臭みがここには感じられないのだ。もっともこれは彼の歌の資質のせいではない。彼の歌人としての資質はむしろ、杉山萠圓名義で「心の花」に発表した、猟奇歌とは全く異なる趣の歌に鮮やかに開いている。あくまでも先行するテーマに寄せた、作り物の狂気のせいだろう。啄木の『一握の砂』の猟奇歌風の歌と比べるとよくわかる。

愛犬の耳斬(き)りてみぬ/あはれこれも/物に倦(う)みたる心にかあらむ
どんよりと/くもれる空を見てゐしに/人を殺したくなりにけるかな

 両者では個のあり方が大きく異なる。夢野は個を消して、ただ猟奇的な出来事を詠う。対して啄木は同様の出来事を詠っても、その背景や心境へ導く個の屹立がある。愛犬の耳を斬るという行為はショッキングだが、歌の重心は下の句にある。曇天を眺めるうちに殺人を思う、その意識の流れにこそ焦点はある。そのためここで見るべきは、表層の猟奇ではなく、どぎつい出来事も融解させてしまう激しい個の存在であろう。
 疎外に対して、個の激しさで抗うか、さしあたり甘受するか。この両者の違いには倦怠が大きく関わっている。ジンメルは倦怠を適応現象として、つまり都市で暮らす以上避けられない、疎外に対する防衛と捉えていた。そのため二人の違いは、明治後期の都市と昭和初期の都市の違いでもある。
 発展中の都市で、啄木は個の疎外に抵抗する。そこにイデオロギーが加われば、詩「ココアのひと匙」のようにテロリストへの共感も表出する。ロマン主義者が政治に触れると、往々にして革命を夢見る。革命とテロは、巨大な機構への内部からの一撃という点において接近する。しかし時として、革命やテロのような大義を必要としない犯罪もまた接近する。毒入りコーラの無差別殺人はまさにその典型である。なぜならばこの事件は、都市の一部品に過ぎない大衆が、動き続ける都市のシステムに対して毒物で揺さぶりをかけるという実にヒロイックな構造を持つからだ。倦怠を知り、面白いことを求める堕落したロマン主義者のわたしたちに、この横滑りは実に顕著に生じる。そのためわたしは、谷岡の下句に、一撃に加担する無自覚・無思想なテロリスト=犯罪者への讃歌さえ見たくなる。だがいくらこの事件が革命に接近しても、疎外からの回復は志向されない。どころかこの犯罪は、疎外の甘受なくしては成立しない。谷岡の讃歌はそれらすべてを諾うため、後味はどこかさびしい。
 個への疎外に抵抗するのではなく受け入れて、都合のよい狂気と戯れつつ刺激を求める「猟奇歌」は倦怠の一形態である。そして都市生活者の疲弊した神経を緻密に詠う佐藤佐太郎の歌も、やはり一形態である。『歩道』の代表歌「薄明(はくめい)のわが意識にてきこえくる青杉(あおすぎ)を焚(た)く音とおもひき」の朧な世界に立つ音を、青杉を焚く音と特異なまでに限定する感覚は、猟奇歌よりもしみじみ恐ろしい。

朝床(あさどこ)にこゑも立てなく目覚めたる吾は液体(えきたい)のごとくに居りぬ
とろとろに摩(す)られし豆がつづけざまに石臼(いしうす)より白くしたたりにけり
電車(でんしや)にて酒店加六(しゆてんかろく)に行きしかどそれより後は泥(どろ)のごとしも

 疲れ切った感覚が「液体のごとく」と表現される。後年のカメラアイを思わせる二首目は、擂り潰された液状の豆をじっと見つめる。佐太郎は夢野のように、新奇刺激を求めようとはしない。疲弊して一切が無価値に思える倦怠の最中、まだ自身が反応しうる瞬間を探そうとする。それが一見取るに足らないないものに集中するため、倦怠を味わい尽くす趣が表れる。この境地を、わたしは虚無や都市の憂鬱とは呼びたくない。もはや「食うべき詩」を詠えない代替可能な個が、立て続けに新奇刺激を与える都市の大渦巻の中で耐え堪え、新たな個へと変容してゆく過程と思いたい。その個の姿が、佐太郎がどこか憧れを持って詠う、液体や擦りつぶされて流れる豆、あるいは泥のように形を持たないものであったとしても。

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