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新進特集 「わたしの郷土・わたしの街」 作品&エッセイ⑬

藤原奏

名前の読みは「かな」。岡山生まれ岡山育ち。今は東京でライターの副業としてライター業を営むという謎の二重生活を送る日々。エゴサで出てくるアルビレックス新潟の藤原奏哉選手に勝手に親近感を覚えています。

廃校

人と目の合わない街で廃校の報せを二年遅れて知った
写真では古ぼけているあの頃は古いと思わなかった校舎
好きだった学級文庫のあの本の行方を思う春の始まり
犀星の詩集を閉じて廃校になった母校の校歌を歌う
結婚をLINEの名前だけで知る他人事のようにさみしい夜空
立ち止まることを許してくれないと思っていた地に廃校のあり
懐かしむ場所をなくして少しだけ衝動買いをする帰り道
うつせみの、と枕詞をつけてする母校の話 密かな眠り
置いてきた寂しさの形に触れるあなたが帰るまでのまどろみ
廃校として建てられる廃校はなくて静かな春にとまどう


会議室

 岡山、と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。
 桃太郎、マスカット、後楽園……県外の人はそういったイメージを持っているだろうし、住んだことのある人なら駅前の巨大なイオンモールや路面電車などを思い浮かべるだろう。もしかしたら「何が有名というわけでもないのに新幹線が停まる謎の駅」と言う人もいるかもしれない。
 しかし、大学卒業までの二十二年間を岡山で過ごした私が思い浮かべるのは、岡山大学図書館に何部屋か用意された、学生向けの貸会議室の無機質な光景だ。
 岡山の高校で短歌に出会い、進学先の岡山大学でも短歌会に入った。短歌が好きだったし、部活の先輩もすでに短歌会に入っていたから、というのが理由だった。
 私が入会した当初、会員はたった三人。部室もなくて、大学図書館の会議室を借りて歌会をするほかなかった。それでも「三人いれば歌会はできる」という信念の下、何度も集まって歌会をした。常に存続の危機に立たされているような状況ではあったが、それでも、あの場所にしか出せない歌はたくさんあったと思う。会議室の真っ白な壁に囲まれ、目の前にあるのは無記名の詠草だけ。歌会の場としてはごくありきたりだが、それが大学に必ずある人間関係や日常のしがらみから私たちを切り離してくれた。酷い人見知りの私でも最初から先輩の歌にどんどん意見することができたのも、後から入会してきた後輩たちが「歌会」という未知の活動にすんなり馴染んだのも、そのおかげでもあったのだと思う。図書館の奥まった場所に隔離されるようにひっそり並んだ会議室は、間違いなくあの時一番自由な場所だった。
 卒業から五年が経ち、あの頃一緒に活動したメンバーもみんな卒業した。今はそれぞれ別の場所にいて、思い思いに生活している。歌集を出版した川上まなみや長谷川麟、結社ではないグループを自分たちで作って活動している村上航、私のように結社の月詠を中心に活動する者など、短歌への向き合い方もそれぞれだ。今はほとんど短歌に触れずに過ごしているというOBもいる。
 それでも、短歌を通して繋がっているという実感は常にある。実際、誰かが歌会を開くとなると当時作ったグループラインにお知らせが届くし、決められた期間毎日歌を詠んで投稿する「一日一詠」をやろうという誘いがあれば何人かは必ず乗る。そして、その時は当時のように忌憚なく意見を交わし合うのだ。地元は新幹線や飛行機で行く場所となり、同窓会からはすっかり足が遠のいている私だが、「同窓会でもそうはいくまい」と思っている(久しぶりに会う友人や親戚にまで人見知りしてしまう難儀な人間は、恐らく私だけではないだろう)。
 あの環境から離れても、短歌自体との距離感があの頃とは違っていても、すぐにそうなれるのは、あの会議室で普段の人間関係とは違った関わりを得られたからだと思っている。富山、東京と、岡山よりずっと短歌が盛んな地域に引っ越して、そこで得られたものもたくさんあるけれど、あの頃あの会議室で育んだものは、今も私の根幹を支えている。
 今は短歌会にも部室が与えられ、会議室で歌会をする必要はなくなったと聞いている。それでも、私はあの会議室のことを思い出深く思っているし、後輩にとっては部活がそんな空間になれば良いな、と願っている。もっとも、時々漏れ聞こえてくる後輩たちの活動状況を知る限りでは、私が願うまでもなさそうだけれども。
 地元を離れ、初対面の人に「岡山って何が有名なの?」と聞かれることも増えた。それ用の当たり障りのない答えも、すらすらと出てくるようになった。しかし、そんなときにも脳裏を一瞬通り過ぎる、あの無機質な会議室の光景がある。

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