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時評2022年12月号

 令和三年に亡くなった小林峯夫さんのフォーラムがあり郡上市へ行った。フォーラム報告で書ききれなかった作品紹介を中心に改めて紹介したいと思う。

  ほどほどに見るべきは見ついつまでもしがみつく気は いくらかはあ(『五六川』)
  小林くーん歌できたかい送りなさい深夜の電話は章一郎先生(『途上』)
  まっすぐに己見つめて歌にする楽しさ苦悩を教えたまいき

 作品評の時間より。
 一首目、四句目まで大上段でいいこと言おうとして、結句で落とすというギャグにするユーモアがいかにも小林さんらしい。二首めは本当にこのような話し方をされた章一郎先生の声が聞こえるようだ。三首目は歌の人生を表す(島田修三)

  退庁の時刻零時と記すときわが誕生日なりしと気付く(『なぎの』)
  照明の及ばぬあたりより現れて夜のグランドを走る女生徒

 一首目は日付が変わるまで働き、日誌か何かに日付を書き込んだら誕生日だった。日中は誕生日など思い至ることもなかった。このような働き方へのくやしさ、苦しさを匂わせながら、事実を書くだけにおさえている。シンプルに表現し余分なことを言わないところに魅力を感じる。二首目、定時制高校に勤務していた頃の歌。「照明の及ばぬあたりから現れ」「夜の」グランドを走るという描写の歌だが、単なる事実だけでなく女生徒の背景などを思わせる面白い作品。(広坂早苗)

  真実に教師にてありし百人に満たぬ生徒と苦しみし日々(『短歌岐阜第三集』)
  真剣に怒れば彼も体ごとわれに迫りてひかざりし子よ
  ストーブの薪切りに山のなだれ行きゆるがざりけり子らの足腰
  定時制をなぜ採らぬかとつめよりて悔しかりけり今も忘れず

 年代は不明だが、分校でのことを歌っていると思われる。生徒とのかかわりを率直な言葉で表す。真摯な態度が伺える。「岐阜歌人クラブ」においても長年活動、指導をされた。(後藤すみ子)

 いつかの名古屋歌会で「僕はね歌ってのはね、情景が目に見えるものでないといけないと思う」と聞いたことがある。フォーラムで市川正子さんが「歌はシンプルにせよ。飾るな、削れ、媚びるな。リアリティを持て。」というようなことを小林さんが言っておられたと紹介された。その一つだったのだと思った。ちなみに続きは「この歌はそれ見えないからよくないと思う」だった。残念ながら筆者の記憶に残っているのはこれだけだ。時々「歌は」と話す形で指導をされてたのだと思う。

 また『五六川』の批評会において、「(『五六川』のことを)叙事詩って言ってたけど、そういうのを狙っていて、日記じゃないけど、日々の描写をしたいと思ったの」と発言されていた。

 フォーラムで第一歌集のあとがきに抒情詩ではなく叙事詩としての短歌を考えておられたと紹介があった。「宝暦挽歌」だけに止まらず、その意識は『五六川』までも引き継がれ、日々の生活そのものが叙事詩となっていったのだと思った。叙事詩は現在は認められているが、小林さんの短歌はそのさきがけだった。第一歌集と第二歌集の出版時期が開いていたが「順番だから」と編年体を守ったことも叙事性を意識していたのだろう。「宝暦挽歌」は一揆をモチーフにしながら、作中人物に成り代わって作る歌ではなく、作者の感情が出ている。連作の冒頭〈この空のいずく見つめて耐えていし稗を刈りつつ宝暦の祖〉は同じ第一歌集にある〈壁のごと山をめぐらせわが村よつくづく狭し空碧き日も〉と呼応する。「叙事詩」と言われたが、その後身の回りの興味あることを歌い続けていくことで、自分の心を見ていく、知るという態度の短歌を実践されたという。

 小林さんとは名古屋支部の歌会で何度かご一緒したことがあり、批評の際「僕はね」から始まり脱線しながら結構長い話をされる方だった。筆者が二十代の頃は鬱陶しいと思ったものだ。歳をとって面白さがわかり始めた頃には高齢で、あまり歌会に出てこられなくなるという残念な巡りあわせであった。フォーラムに参加し、若いときに真面目に聞いていればよかったと思ったところを少しは埋めることができた。後藤すみ子さんの「叙事詩を書きたいとあったが、第一歌集から『途上』までを読んで、小林さんの人生の長編叙事詩ではないかと思った。」という発言が印象深かった。(佐藤華保理)