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11月号時評

いい歌とはどんな歌か  富田睦子 

 今は9月末。2月半ばあたりから歌会や歌集批評会、授賞式やシンポジウムなど表立って人を集めるイベントは軒並み中止されたから、もう半年以上経っているわけである。
 人によっては日常の中で短歌のことを考える時間が減ったとか、自分が作るのみならず人の作品も読むことができなくなったとも聞く。短歌は「座」の文芸とも言われて、互いに読み合うことで成立する形式だから無理はないだろう。
 私は今のところ詠むにも読むにもさほど支障ない。しかし去年の今ごろと比べて変わったところはやはりある。短歌総合誌を面白く読めなくなってきたのだ。以前は一通り開いてみて、特に特集や時評などには必ず目を通していたが、今は以前のような興味を持てず、斜め読みがいいところ、届いたまま積んであることすらあるのだった。
 このインターネット時代、歌人同士の交流が全くなくなったわけではないのだが、思いがけない人と出会って話し、興味の範囲外だった作品や論考に触れたりする機会が激減して、「ストライクゾーン」が狭まっているのかもしれない。
 友人同士でやっているZOOMの歌会でこんな作品が高評価だった。
  百合の花粉ついてしまったブラウスを喪いし夏の刻印とする
            遠藤由季

 この歌会は実験の場だから、出してみて反応を見て作り替えることはよくある。だからこの歌がこの先どう形を変えるのか変えないのかわからないのだが、私は一読して「百合」「花粉」「ブラウス」「喪いし」「夏の刻印」と並ぶ言葉が時代がかって好きになれなかった。しかし、点を入れた人たちは反対に「だからいい」のだと言った。「自分が短歌を始めたころに読んでいいなあと思った歌の、その感じがある」と。
 なるほどなあ、と思った。
 好き嫌いを別にして歌の評価をすれば、この特殊な夏の奇妙な感じとちょっとした不注意で(「しまった」がうまい)ダメにしてしまった繊細な衣類はよく合うし、痛みというほどのものでなくともどこか傷ついている今の心の状態も伝わる。だが、やはり「ブラウス」「夏の刻印」はざらっとするなあ、と思ってしまうのだ。
 私は「ストライクゾーン」が狭まって言葉の選択の好悪で判断してしまったし、逆に選歌した人も「この感じがなんか好き」と感情で選んでいる。リラックスした場だということもあるのだが、理性より情動が優先されている向きがあるのだった。
 さて、それで困ったことがあるだろうか。あるのかもしれないが、今は、もう少し見逃してほしい。この歌が上手い歌かどうかではなく好きな歌かで判断するのは、なかなか爽快なのだ。「短歌を始めたころに憧れた歌」というのはやはりいい。理屈ではないのだ。そして、究極詩歌というのはそういった、理屈では言い表せないところにあるべきものなのかもしれない。そんなことを思うと心の錆が落ちていく気がしてくる。
 私にとって「いい歌」がどんな歌なのか、もう少しで思い出せそうな気がする。

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