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時評2024年5月号

それぞれの叛逆

 紫式部が主人公の大河ドラマ「光る君へ」が放送中だ。古典ファンからするとつっこみどころも多いだろうけど、わたしは古典の素養がないのが幸いして素直に楽しんでいる。印象深かったのは第六回の終盤、藤原道長からまひろ(のちの紫式部)へ文が送られてくるシーン。夜、蝋燭の明かりの中で文をひらくまひろが画面の中央にいる。道長の声で歌が読みあげられると、まひろの周囲に筆書きの歌がすーっと現れるのだ。

  ちはやふる神の斎垣もこえぬべしこひしき人のみまくほしさに

やがてその字がふわっと消えて、道長の想いを知ったまひろは、文を胸にぎゅっと抱き締めるのである。
 この歌は『伊勢物語』の〈ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし大宮人の見まくほしさに〉を元にドラマ用につくられたものらしい。その出来はともかく、わたしはこのシーンを見て「相聞歌っていいなあ」と思い、また「歌」の元々の姿を見たような気がしたのだった。声が宿り、体温が宿り、文字を離れて人の心に沁み込んでゆく、そういう「歌」の姿を。
 思い浮かんだのは菅原百合絵『たましひの薄衣』(書肆侃侃房)だった。昨年、第四十九回現代歌人集会賞と第二十四回現代短歌新人賞を受賞した話題の一冊である。

  ほぐれつつ咲く水中花――ゆつくりと死をひらきゆく水の手の見ゆ
  花ひらくやうに心は開かねど卓にほつとり照るラ・フランス
  視えぬ傷を視えぬ指もてなぞりゆく夜の想念の湖(うみ)揺れやまず


 「水中花」「ラ・フランス」「湖(うみ)」といった鮮明な具体に添えられる「水の手」「ほつとり」「夜の想念」。空間に言葉がふっと現れ、その言葉がさらに空間をおしひらいてゆくようだ。この歌集において「ひらく」ことは生であり死でもあると思うとき、菅原の歌は命のほのかな灯火のようでもある。

  くちづけで子は生まれねば実をこぼすやうに切なき音立つるなり
  釣鐘草揺らしてあそぶ 逢はぬ日と逢ふ日をかさね春は終はりぬ

 こうしたストレートな相聞歌は菅原の本領発揮だが、「現代短歌新聞」(二〇二四年二月号)掲載のインタビューで菅原は次のように語っている。
私自身はいわゆるお嬢様校に小中高といて(中略)聖書的な世界に惹かれていく自分とそこから解放されたい自分がいた。そこを出て自由な世界を手に入れる手段は知と性だったんですよね。(中略)クラシックな恋愛をなぞっているように見えると思う。実際そうなんだけど、相聞を作ること自体が一つの叛逆なんです。
 歌集終盤に収められた結婚や性に関する連作が、冷たい刃のような光を放っている理由がよくわかる。
 「光る君へ」はどうやら「書くこと」による女の叛逆の物語であるらしい。『たましひの薄衣』もまた。懐かしい相聞歌の復活にほっとしている場合ではない。

  今しがたわれに触れゐしひとの手が川の光を指してきらめく

(北山あさひ)