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新進特集 「わたしの郷土・わたしの街」 作品&エッセイ⑨

北山あさひ

北海道小樽市生まれ、小樽市育ち。
  

タイムマシン

次々に窓がひらいて春になるパン切りナイフを買おうと思う
やらされることで成長できるってカモメの静かなる白十字
鳥たちを、ヘリコプターを、雷を見上げるときは喉笛隠せ
三つ編みのためにひらめく誰かの手 済州島(チェジュド)四・三事件の朝の
伏せている鏡のなかに夜は来て辛夷はしろき五指のばしたり
人間と同じくらいの大きさの「ぢ」薬局の赤い看板
思い出と記憶はちがうババロアとゼリーのように バスが暑いな
みずいろの四角い空へのぼりゆくエスカレーターの背鰭にふれて
あるときは火花のように吹きあがる春の雪 遠く密航船ゆく
夜、ココアをかき混ぜている木のスプーン手を離しても回り続ける


「かなしき」町~小樽と啄木について~


  かなしきは小樽の町よ
  歌ふことなき人人の
  声の荒さよ     『一握の砂』

 この歌が刻まれた歌碑が、北海道小樽市の水天宮境内にある。もともとの計画では小樽公園に設置されるはずだったが、建立のための助成金を求められた小樽市が「この歌では将来にわたって市民感情に抵抗がある」とし、結局、小樽公園には別の歌碑が建つことになった。事前に実施された市民投票(どれくらいの規模なのかは不明)では「かなしきは~」が人気第一位だったというから、市民と役人で「読み」が分かれた、ということになるだろうか。歌会で両者の意見を聞いてみたいものだ。
 当の啄木は小樽とその町の人々をどのように見ていたのだろう。

  小樽に来て初めて真に新開地的な、真に植民的精神の溢るる男らしい活動を見た。男らしい活動が風を起す、その風がすなわち自由の空気である。(中略)小樽の人の歩くのは歩くのでない、突貫するのである。日本の歩兵は突貫で勝つ、しかし軍隊の突貫は最後の一機にだけやる。朝から晩まで突貫する小樽人ほど恐るべきものはない。 「初めて見たる小樽」

 右は啄木が小樽日報に書いた記事の一部である。新天地に気が大きくなっているのか、小樽人へのサービスなのか、褒めているのにどこか下に見ているような、いかにも啄木らしい文章である。
 啄木が小樽にやってきたのは明治四十年(一九〇七年)の九月。港湾が整備され、物資の供給基地として右肩上がりに町が成長し、人口も急増している時期だ。ちなみに「突貫」というのは突撃のこと。働く人はみな突撃するようにエネルギッシュに駆け回っていた。参考までに「小樽市指定歴史的建造物一覧」を見てみると、明治四十年より前に建設されているのは倉庫や商店、実業家の邸宅などが多く、それ以降は銀行が相次いで建設されている。重要文化財である日銀小樽支店は明治四十五年竣工、北海道銀行も同年の建造である。そのほか三菱銀行や北海道拓殖銀行の小樽支店などが大正の終わりまでに完成し、一帯は「北のウォール街」とも呼ばれた。
 私は想像してみる。あちこちで建物を建てるトンカチの音が聴こえ、新しい木の匂いがする。「日本一の悪道路」を、泥跳ね上げて荷馬車が往来する。人々が大股歩きでずんずん進んでゆく。手宮線を機関車が走る。港には艀がびっしり。荷揚げ夫たちが重い荷物を次から次へと運んでいる。大声が飛び交っている。商人たちがそろばんを弾いている。行商人が食べ物を売りに来る。海の遠くでは北防波堤が完成間近だ。頭上をウミネコが飛んでゆく――。
 啄木がいたのは単なる商都ではなく、筋骨隆々とした、躍動する身体のごとき町なのだった。幼少期は病弱で「筋骨薄弱」のために徴兵免除となったこともある啄木。先の文章でも「(小樽人のように活動することは)足の弱い予にとうていできぬことである」と書いている。労働者たちのエネルギーが溢れる小樽の町は、彼の中の劣等感や溌剌とした肉体への憧れを少なからず刺激したことだろう。

  真剣になりて竹もて犬を撃つ
  小児の顔を
  よしと思へり     (『一握の砂』)

 侍や軍人の真似か、「やあっ!」と犬をぶつ子どもの顔を、啄木は志ある者として好意的に見つめている。「歌ふことなき人人」へ向けられた眼差しも同じもののように思える。同時に、分かち書きが生み出す余白に、啄木の寂しさが滲んでくるような気がする。「生命の続く限りの男らしい活動」「真に植民的精神の溢るる男らしい活動」「男らしい活動が風を起す、その風がすなわち自由の空気である」……。啄木にとって「男」とは「英雄(ヒーロー)」で、自分もそうなるはずだったのに、うまくいかない。自分の身体を活用し、金を稼ぎ、「悲しい玩具」を必要ともせずに生きる小樽の人々が、啄木の目には眩しく、そして思いもよらないダメージを残したのではないだろうか。「かなしき」は「悲/哀しき」以外に「愛しき」とも書く。明治四十年、小樽の熱気の前にじっと佇む「かなしき」啄木の姿が見える。小樽の役人は真っ先にこの歌の歌碑を建てるべきだった。

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