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ガールフレンドと江戸川でも散歩したらどうなの?いないの?

兄の家から奪還してきた『水曜日は働かない』を読み返していた。

『水曜日は働かない』は、(虚構の)闘争と傷の舐め合いに無意識に放り込まれるSNSをはじめとする情報環境下において、いかに主体として生きるかという問いを宇野常寛が実践した記録である。エッセイの形をとった、恋愛リアリティーショーやドラマ、映画の批評を通して社会へと目をむける。
一度読んだ時には、それぞれ独立したエッセイのように楽しんだ。今、もう一度読み返してみると、それらに通底するものを感じた。

この文章は、『水曜日は働かない』(の主に『第二部 2020年代の想像力』)に通底する問題意識を自分なりにまとめ直すために書かれている。だから、副読書として読んでもらえるといいのかもしれない。僕の新しい視点はほとんど入っていないので。しかし、この問題意識から持ち帰るものがあるとぼんやりと思っているので、書く(まとめる)ことを通じてそこに迫りたい。


本書の『第二部 2020年代の想像力』(これは筆者のデビュー作『ゼロ年代の想像力』のセルフパロディであろう)の『第5回 この国に「寅さん」はもういない』にて、筆者は『男はつらいよ』シリーズをこう批評している。

『男はつらいよ』とは葛飾柴又に暮らす昭和の大家族が世代を経て戦後的核家族に移行していく過程を、そのどちらにも加わることのできない寅さんというアウトローの視点から描いた作品「でも」あったと思う。

184頁

さらに、コミュニティの半分外にいる寅さんという立ち位置が、寅さんにとってもコミュニティにとってもポジティブに働いていたと考えている。これは筆者が近年取り組んでいる「遅いインターネット」をはじめとする情報環境の外部を求める議論にも接続されているのだと思う。

『男はつらいよ』は中盤以降、事実上の主人公が寅さんの甥っ子である満男へと移行していく。(僕はまだそこまで見ていない。)相変わらず放浪する寅さんは時々帰ってきて満男の恋を応援する、という物語が展開されるらしい。
これは渥美清の体調上の理由によるものだが、結果的に物語では次のような意味づけができると筆者は言う。

寅さんは、戦後の大衆の等身大の幸福を半分外側から、中距離から肯定する役割を負っていたのだ。僕たちはどこにも行けない。しかし寅さんはどこにでも行ける。しかしそんな寅さんは必ずここに帰ってくる。そんな寅さんに時々触れることで、僕たちは戦後社会の等身大の幸福を肯定できるのだ。

185頁

シリーズ最終作『男はつらいよ:お帰り 寅さん』では、小説家として成功した(らしい)満男は、ある意味で幸福かもしれないが、「決して等身大の幸福」を手にしているとは言えず、筆者の分身としての物語上の役割を与えられている。

満男は、もはや少なくともあの頃のようには肯定できないいまの日本の現実に打ちのめされ、そして「こんなときに伯父さんがいてくれたら」と涙する。

187頁

僕たちは、「もはや少なくともあの頃のようには肯定でき」ず、そして寅さんのいない日本を、生きていかなければならないのだ。
そして、物語の創作はその可能性を探り、見るものは創作からそれらを持ち帰らなければならない。


筆者は、『第6回 僕たちにエヴァンゲリオンは必要ない』で、現代を生きていくことの可能性を探るのはあの庵野秀明を持ってしても難しい課題なのだと、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の批評を通じて述べる。


「旧エヴァ」はレイ(母/虚構)との別離を受け入れ、アスカ(他者/現実)と対峙するまでの物語であり、「新エヴァ」はアスカ(思春期の初恋)にわかれを告げて、大人になった自分と並走してくれるパートナー(マリ)を選ぶ物語だ。

192頁


しかし、「旧エヴァ」から「新エヴァ」までの25年間、現実を生きる人々はとっくに「マリ」を見つけた後の物語を生きていた。生きざるを得なかった。
並走してくれるパートナーを見つけることは決してゴールなどではなく、スタートでしかない。『シン・エヴァンゲリオン』の終わりは『花束みたいな恋をした』の始まりである。
筆者が取り上げるように、たとえば坂本裕二が『カルテット』や『大豆田とわ子と3人の元夫』などで模索する「並走してくれるパートナーを見つけた後にどうするか」を、現実に生きる人たちもこの25年間、課題としていた。にもかかかわらず、「新エヴァ」はマリを選ぶことをゴールに据えてしまっている、と筆者は批判的に述べている。

端的に言えば「古い」ということなのだろうけど、この「古さ」はじっくりと今の僕たちが考えなければならないことである。
庵野秀明をもってしても難しい課題であることが結果的に証明されたわけだけど、それは僕たちが諦めていい理由にはならない。
どう古いか、それは物語を語るとはどういうことかということを含めて、筆者が次のようにまとめてくれている。

90年代には物語を語ることと登場人物に安全に語れるレベルの安っぽいトラウマを与えてそれを吐露させることで感情のサプリメントを仕上げることが限りなく同義であったのと同じように、その後の、21世紀の世界で物語をつくるとは本質的に現実に回帰した後に、トゥルーエンドを与えてくれるパートナーをを見つけた後に、あの何もない宇部の街のような郊外に放り出された後に何をするのかという問いに応えることを意味していたはずだった。

193,194頁

僕は、「新エヴァ」を批判することに興味はないし、筆者もそうだろう。

しかし、「21世紀の世界で物語をつくるとは本質的に現実に回帰した後に、トゥルーエンドを与えてくれるパートナーを見つけた後に、あの何もない宇部の街のような郊外に放り出された後に何をするのか」という問いは物語を語ることにおける問いであるだけでなく、生活する主体である僕たち自身の問いであるはずなのだ。(というか物語を語ることにおける問いであるということは、生活である僕たち自身の問題である。)

筆者のこの問題意識に僕は同意するし、2022年くらいからこれを考えて実践しようとしてきた。現に、2021年の1年間をかけて『花束みたいな恋をした』と決別し、「その後」を考えてきた。それは、自立とは何かを考えることであり、生活の手触り感とは何かを考えることであり、宇野常寛的に言えば「情報社会を支配する相互評価ゲームの<外部>を求めることで、21世紀に望まれる、新たな主体像を模索する」ことである。


ちなみにこれは、シリーズ第14作目の『男はつらいよ:寅次郎子守唄』を流しながら書いている。
ついぞ平成を見届けることがなかった寅さんを、令和的なマルチタスクで消費をしている。

『寅次郎子守唄』で、くるまやを尋ねてきた女性が工場の従業員に次のように呼びかけるシーンがある。

ダメじゃないの、お天気がいいのにこんな所でくすぶったりしていて。健康に悪いわよ。ガールフレンドと江戸川でも散歩したらどうなの?いないの?

部屋でくすぶっているより「ガールフレンドと川を散歩する」方がよっぽど良いという価値観を、古くもあるが新しくもあるこの価値観を現代的に、かつポジティブに捉え直す必要があると僕は思う。

スマホ時代にマルチタスク的にもはや観念ばかりを消費している僕たちが、消費者として自立することを考える必要があるのだ。
それは決して「この現実を並走してくれるパートナーとしてのガールフレンド」を見つけるという話でも、「川を散歩する」ということに(それこそデジタルデトックスのような)牧歌的な憧憬を抱くという話でもない。
それは、たとえば「川を散歩する」ということを、どう思想的に捉えられるかを考えるべきである、ということだ。


そして、それは、京都のインでペンデントな書店の誠光社から出版されているオオヤミノル『喫茶店のディスクール』的に言えば「いかにインディーであるか」ということである。次回はこれについて考えたい。
(おわり)

最後まで読んでいただきありがとうございます。
ウェブサイトと、Podcastをやっているので覗いてみてください。


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