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セカイ系を考えることは、自分の生活を考えることそのものである

※この記事は、僕が運営しているウェブサイト『あの日の交差点』に掲載しているものです。ウェブサイトの方では、参考資料も掲載しているので是非覗いてみてください。

セカイ系を考えることは、自分の生活を考えることそのものである———


1ヶ月ほど前、セカイ系についてよく考えていた。ある程度、切り口と突破口は見つかったものの、完結しなかったので言葉にしてこなかった。(あまり中途半端に滅多のことを書くと、よくないかと思って…)
そして、思ったより問題は大きく、勉強しないといけなさそうな分野や書籍は多岐に渡り、とても1ヶ月1年やそこらでは完結しそうにないことがわかったのだ。

そこで、ここでは未完成なものを断章として残しておこうと思う。
いつか、完成するその日を楽しみにしながら、忘れないうちにいま見えているセカイ系のパースペクティブを書き残しておこうと思う。
それはきっと今回取り上げる『急に具合が悪くなる』の文脈で言うと「未完結なまま残ったものは、その人が生きていた / 生きようとしていた痕跡でもある」と言えるだろうか。
セカイ系に関しては雑語りが目立つかもしれないですが、温かい目でご覧ください。

1.『急に具合が悪くなる』


先月、セカイ系について考えることになったのは、歩いている時にふと降りてきたあるひとつの気づきからだった。

宮野真生子, 磯野真穂『急に具合が悪くなる』における和辻哲郎の信頼の話と、山内志朗『わからないまま考える』における「セカイ系の倫理」はきっと同じことを言っているのだ…!

ここで、今後の構想を少し述べると、『急に具合が悪くなる』と『わからないまま考える』について触れてから、セカイ系と生活について現在見えているパースペクティブを描いていく予定だ。

『急に具合が悪くなる』。
今年は、この本について書かずして何を書くと言うのだ。
これを書くにあたって改めて読み返すほどに、その思いを強くする。

『急に具合が悪くなる』は哲学者の宮野真生子と人類学者の磯野真穂の往復書簡である。
この本には、人間が生きていることがこんなにも生々しく、そして力強くパッケージされた書籍はかつてあっただろうかと思うほどに、頬が緩むような優しい表紙からは想像もつかない質量と熱と念が封じ込まれている。

がんを患っている宮野さんが医者に「急に具合が悪くなるかもしれない」と言われている話から、「急に具合が悪くなる」と言われている生活と言われていない生活の認識の差異という話題から往復書簡は始まる。そして、第6便あたりから様子が変わってくる。宮野さんが本当に具合が悪くなり始めたのだ。そして、磯野さんから宮野さんへの第7便の最後の「宮野にしか紡げない言葉を記し、それが世界にどう届いたかを見届けるまで、絶対に死ぬんじゃねーぞ」という呼びかけがこの本の行く先を決定づけることになる。
宮野さんはこの手紙の返事として、ハイデガーの死の分析を引用しつつ自身の感覚を言葉にしながら、先ほどの磯野さんの言葉の呼びかけに応答することについて思考を始めるのだ。

明日死ぬかもしれない者(むろん、誰もがそうであるのだが。)にとって、「約束」とは一体何か。ここで、「約束」を「信頼」という観点から論じた和辻哲郎が引かれる。
和辻いわく、「信頼」とはわからないはずの未来に対してあらかじめ決定的な態度をとること」。あらゆる可能性がある中で、わからない未来を前に、時間を超えて、未来を現実と一致させることができる能力を持っていると言えるとき、人は「約束する能力」を有する人になり、それは信頼に値する人として扱われるようになることだと宮野さんは説明する。

突き詰めて考えれば考えるほど、私たちはきっと「未来を現実と一致させることができる能力を持っていると言える」ことなんてない。
しかし、私たちは約束する。
ここにこの本の白眉のひとつがある。

宮野さんは「絶対に死ぬんじゃねーぞ」」という磯野さんの呼びかけに、それでもなお、約束するというのだ。
そして、それは、死の可能性を隠蔽しているのではない、とも。
約束とは、そうした死の可能性や無責任さを含んだ上で、本来取れるはずのない『決定的態度』を『それでも』取ろうとすることであり、こうした無謀な冒険、賭けを目の前に対して、『今』表明することに意味があるのだろうと。
そして、呼びかけに対してこう応える。

私は今「うん、わかった」と約束したいと思っています。(中略)それは単純に「死なない」ことの約束じゃない。磯野さんが希望し、私も見たいと望む未来に対する賭けであり、そこに向かって冒険の道をくじけずに歩んでゆくことの覚悟であり、なによりも、そんな言葉を投げかけてくれた磯野さんと私の今の関係への信頼なのです。

宮野真生子, 磯野真穂『急に具合が悪くなる』

なるほど、大事なのはそれが達成されるか否かではなく、「それを私も達成したいと思っている」という気持ちの表明であり、それこそが「信頼」なのだ。
この「本来取れるはずのない『決定的態度』を『それでも』取ろうとすることであり、こうした無謀な冒険、賭けを目の前に対して、『今』表明すること」である「信頼」が、セカイ系の倫理学に接近しているように感じるのだ。


Photo by まひる

2.『わからないまま考える』


セカイ系について考える上で、東浩紀や宇野常寛を筆頭に議論されてきたことをすっ飛ばしてはいけないことは十分に承知している。(そもそも真剣にこの問題を考えるならセカイ系の作品を見なきゃいけないし、読まなきゃいけない。)だから、ここまで「書けなかった」し、まだ未完成なのだ。
前章の冒頭にも書いた「思ったより問題は大きく、勉強しないといけなさそうな分野や書籍は多岐に渡り、とても1ヶ月1年やそこらでは完成しそうにないことがわかった」というのはこの意味で、である。
しかし、ある地点にまでいくことができたから、その先に進むために必要なものも見えたわけなので、ある地点にまでいくことができたことを残しておくのはそれなりに意味があると思っている。

2.1 セカイ系の問題は生活の問題である


さて、これを書くきっかけとなったあるひとつの気づきを再掲する。

宮野真生子, 磯野真穂『急に具合が悪くなる』(2019)における和辻哲郎の信頼の話と、山内志朗『わからないまま考える』(2021)におけるセカイ系の倫理はきっと同じことを言っているのだ…!

この章では、後半の『わからないまま考える』について考える。
『わからないまま考える』は慶應大学文学部教授の山内志朗が哲学・音楽・小説・アニメなど、様々なジャンルの作品を、現実の生活とどのようにまじりあわせるかという点を論じた、雑誌『文學界』での連載をまとめた書籍だ。

図書館でいつものごとくぶらぶらしていた時に、たまたま新刊コーナーで目に留まってそのまま借りて読んだ。これがきっかけで、いっきにセカイ系についての議論に引き込まれることになる。

Photo by まひる

本書の中でセカイ系についての議論に多くのページが割かれる。
新海誠作品から『エヴァンゲリオン』など、とてもお堅い哲学の先生が書くテーマだと思えない題材に、むしろ興味を抱いたのだった。
しかし、ひらけばわかる。
セカイ系と哲学、セカイ系と倫理学は切っても切り離すことのできない問題であった
そしてそれは、セカイ系と生活は切っても切り離すことのできない問題であることをそのまま意味している。

本書でも、そして一般的にもセカイ系の明確な定義はされていないが、おおかた次のような定義が共通見解だろう。
孤独、他者を求めている、正体のわからない敵と戦っている等のイメージを軸に、主人公の少年・少女たちが、社会活動範囲をそれまでと同等に保ったまま、『世界の危機』という巨大な問題に立ち向かうというような傾向を持ったストーリー。(神保慶政『アニメにヒントをもらい「わからない」を楽しむ――慶應大教授がコロナ以降に必須のマインドセットを説く』)

「社会活動範囲をそれまでと同等に保ったまま、『世界の危機』という巨大な問題に立ち向かう」というのがまさに、「僕と君の問題がそのまま、世界(セカイ?)の問題になる」ということである。
そして、著者はセカイ系の作品のことを「生きているうちに文明崩壊の可能性に直面するかもしれない若者たちの驚きと危機感の現れ」と評している

セカイ系にあるのは、なぜ戦っているかわからないが戦っている、戦わざるを得ないというイメージであり、戦うことによって自分の存在意義が現れてくる、確かめられるというものだ。希薄な現実のリアリティを濃厚なアクチュアリティに変えるのは、自分が戦っているという自己感覚なのだ。
「戦う」ことが存在意義であると捉えることそのものが、世界のあり方に予断を含んでいる。と著者は言う。

ハイデガーの議論を借りると我々「世界内存在=人間」の実存様態は、「本来的には死を先駆的に決意する存在であるが、死を見つめることを避け、日々の気ぜわしさと雑事と楽しみに心を費やし、世界に埋没して生きること」だ。世界の「内」にあるということは、世界の中に埋もれて生きることである。(同じように『急に具合が悪くなる』では、宮野さんがハイデガーの「死はいつか来る、しかし今ではない」という死の議論を取り上げる。)

ハイデガーの、世界内存在の実存形態のように人間の実存が捉えられるとき、世界と戦うことを、いや世界のために戦うことを含んではいなかった。しかし、セカイ系は、ハイデガーの語る世界内存在の様態を「孤独、戦うこと、自分を愛してくれる他者」という契機で作り直している
希薄なリアリティしかない世界とどのように関わるのか、関わるべきなのか、いや関わりたいのか。いかにして、現実にアクチュアリティを取り戻すか。そこにセカイ系の課題がある。
と著者は言う。

セカイ系とは、最終的には関係の問題なのだ。
これで、一気に生活の問題に近づく。
どのような仕方でこの世界に切り口を見出し、どのようなスタンスで生きていくかを考え続けているという点で、セカイ系の問題と日常生活の問題は直線で結ばれるのだ。

2.2 「信頼」と「セカイ系の倫理」


さて、セカイ系のモチーフとしてしばしば用いられる恋愛とは、基本的にセカイ系状態である。全世界が二人だけの世界になるというのが恋愛状態であり、そこにも恋愛のコナトゥス(原動力)は働く。
青山拓央『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』的にいうと、恋愛は「より良い未来のためにするものではないし、うまくいくということがそもそも意味を持たないもの」である。
『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』では、ここで坂口安吾の『恋愛論』を引用している。

恋愛というものは常に一時の幻影で、必ず亡び、さめるものだ、ということを知っている大人の心は不幸なものだ。若い人たちは同じことを知っていても、情熱の現実の生命力がそれを知らないが、大人はそうではない、情熱自体が知っている、恋は幻だということを。(略)教訓には二つあって、先人がそのために失敗したから後人はそれをしてはならぬ、という意味のものと、先人はそのために失敗し後人も失敗するにきまっているが、さればといって、だからするなとはいえない性質のものと、二つである。恋愛は後者に属するもので、所詮幻であり、永遠の恋などは嘘の骨頂だとわかっていても、それをするな、といい得ない性質のものである。それをしなければ人生自体がなくなるようなものなのだから。つまりは、人間は死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえということが成り立たないのと同じだ。

坂口安吾 恋愛論 - 青空文庫


先人はそのために失敗し後人も失敗するにきまっているが、さればといって、だからするなとはいえないもの。これが人生そのものであるとするならば、「この身で失敗させてくれ」という自分の態度は間違っていないかもしれない。

重要なのは、恋愛は「より良い未来のためにするものではないし、うまくいくということがそもそも意味を持たないもの」であることだ。
そしてそれは、坂口安吾の『恋愛論』的な意味で、である。
(ああ、MCUのフェーズ4〜6が「マルチバース・サーガ」と名付けられた今、あらゆる可能性とどう向き合うかということと幸福の関係についても考える『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』を改めて読み返さないといけないし、その背景にある膨大な議論も読まないといけないことを思い出してしまった。。)

Photo by まひる


そして、『わからないまま考える』に話を戻すと**、世界の中心で愛を叫ぶ、というのは事実の記述ではなく、約束であり、契約なのだ**と筆者は言う。
「僕たちは、大丈夫だ」(『天気の子』)というセリフは保守性の現れでも、気候変動の危機を傍観する態度でもないし、これは事実を記述しているのではない。大事なのは「大丈夫であること」ではなく、「『大丈夫だ』という未来を達成したいと思っている気持ちを表明すること」なのだ。それが達成されるか否かは別の問題である。だからこそ、セカイ系は約束の形式であり、この約束から始まるのが「セカイ系の倫理」なのだと、著者は言う。
世界に埋没することで実存できなかった人は、何かと戦うことを実存の契機としようとして、その結果、君と僕だけの世界という結び目に実存の契機を見出し、「僕たちは大丈夫だ」という未来を自分達に「約束」するということで、世界に埋没していく。
これが、セカイ系の倫理なのかもしれない。
この意味で、「本来取れるはずのない『決定的態度』を『それでも』取ろうとすることで、賭けを目の前に対して、『今』表明すること」である和辻哲郎のいう「信頼」と、「セカイ系の倫理」が接近しているように感じたのだ。

3. いつセカイ系を発動するのか


ここまで書いていて自分でも少し焦点が散漫になってきた。
改めて考え直してみると、セカイ系について自分は二つのことを書こうとしていることに気がついた。
第一に、セカイ系の倫理とは、和辻哲郎の言う「信頼」から始まるものなのではないか、ということであり、第二に、セカイ系は、日常生活のどの瞬間に発動するものなのかを考察する、ということである。
ここまでは前者について書いてきた。『急に具合が悪くなる』の力を借りることで、『わからないまま考える』の「セカイ系の倫理」を噛み砕いて理解することができた。『急に具合が悪くなる』には、ここに抜き出したもの以外にもたくさんの刺激的な言葉が記されている。時間を置いて何度でも繰り返し読み、その都度、変化するそこに映る自分自身を確かめていきたい。名残惜しいけれど、『急に具合が悪くなる』にはいったん別れを告げて先に進むこととする。



世界に埋没することで実存できなかった人は、君と僕だけの世界という結び目に実存の契機を見出し、「僕たちは大丈夫だ」という未来を自分達に「約束」するということで、世界に埋没していく。というある種のプロセスが、セカイ系にはある。

セカイ系はおそらく、どこか別の世界の話なのではなく今この瞬間にも我々の身に「発動」し得るものなのだ。

では、どのような時に発動するのか。
世界に埋没することで実存できない時である。
言い換えると、世界に埋没できない時である。

常に現実感が指の間をすり抜け、気を抜けば地面が抜けてしまいそうな不安定な世界を生きている時、セカイ系は発動する。掴もうとしても取りこぼす世界に、わずかでも迫るために、世界を一旦諦めて手の届く範囲のセカイを作り出す。そこに手触り感を求め、実存の契機とするのだ。

それは往々にして、「君と僕だけの世界(セカイ?)という結び目」という仕方で語られる。そして、セカイに手触り感を取り戻し、実存の契機を見出した時、セカイから世界へと、心象世界から宇部の街へと、出てくることができる。セカイ系は発作的なもので、現実逃避的にセカイに逃げ込むのだけど、何かを手にして世界に出てくることができる。

この、「何か」は考えるに値する。
文脈上「何か」とは世界の手触り感のことなので、「世界の手触り感とは何か」という問いを設定することができる。
こうして、セカイ系について考えることは、日常生活について考えることと全く同義になるのだ。

セカイ系は発作的なもので、現実逃避的にセカイに逃げ込むのだけど、何かを手にして世界に出てくることができる。
このプロセスは、終わりのないもので、世界→セカイ→世界→セカイ→…と繰り返す(:||)ものである。

これには見覚えがある。
人間は「動物になる瞬間」になるのだから、日頃から考え続けて、感受性を解放し続けて、「動物になる瞬間」を待ち構えよ。と鮮やかに日常生活の生き方を説いた國分功一郎『暇と退屈の倫理学』だ。この本では「環世界を移動し続けるのが人間だ」という説明から、退屈と気晴らしを繰り返す人間像が描き出された。この「退屈と気晴らしのプロセス」と「セカイ→世界→…の循環」に同型性を感じる。

セカイ系とは、『暇と退屈の倫理学』における気晴らしの一種ではないだろうか。(適切な呼称とは思えないがうまい言葉が見つからないので、便宜上「気晴らし」と呼ぶ)
となると、気晴らしにはいくつか種類が存在することになる。
今のところ、「動物になる瞬間=熱中」と「セカイ系の発動」だ。
「セカイ系の発動」は現実逃避に止まらない何かがあるはずなのだけど、まさにここがまだわからない「未完成」な部分なのだ。ここがわからなくて書けなかった。。。
しかし、ここで終わりではない。

4. 「没入していない-没入している」-「つらい-つらくない」



シンジが宇部に出てきたことと、自分が散歩することははひょっとしたら同じことなのかもしれない———


ここで、セカイ系を取り巻く自分なりの考えに補助線を導入したい。
「没入していない-没入している」という横軸と「つらい-つらくない」という縦軸を引いてみるのはどうだろう。(図1)
この2軸によって生まれる四つの象限で日常生活をよりクリアに見ることができるのではないか、というのがこの一連の文章の核である。


図1


この2軸によって生まれる四つの象限で日常生活をよりクリアに見ることができるのではないだろうか。

「(世界に)没入している」とはどういうことなのか。
これを考えるにはむしろ、「(世界に)没入していない」状態から考えてみると見えてくるものがある。

われわれが「(世界に)没入していない」と感じる時、目の前の現実が現実として受け入れられず、いま、座っているのか立っているのか、寝ているのか走っているのか、食べているのか踊っているのか、わからなくなる。極端にいえばそんな感覚になる時、「(世界に)没入していない」と感じるだろう。常に、現状に不満足で、かといって何をすれば満足するかもわからない、そのようなもどかしさの中で、目の前の現実は指からすり抜ける。生活している実感が得られない状態だ。

お笑いをやっている時間よりお笑い論を語っている時間の方が長くなるとおしまいだ、というように、生活している時間より人生論を考えている時間の方が長くなってはおしまいだ。
「(世界に)没入していない」と感じる時、わたしたちは生活している時間よりも人生論を考えている時間の方が長くなっているのかもしれない。
そこにはある種の自意識過剰性がある。
それは過剰に自己を客観視していることであり、すなわち主客が分化されている状態である。

したがって、次のように定義できるのではないか。
「(世界に)没入していない」状態 = 主客分化の状態
「(世界に)没入している」状態 = 主客未分化の状態

「(世界に)没入している」状態 = 主客未分化の状態こそ、西田幾多郎のいう絶対矛盾的自己同一のような気もするのだけど、まだ理解が甘いのでいつかの自分が理解してくれることに期待する。


ここで、先ほど導入した補助線を思い出したい。
「(世界に)没入していない-没入している」という横軸と「つらい-つらくない」という縦軸。

図1(再掲)


この中で最も不健康なのは、第三象限(没入していない-つらい)だと考える。

実体験として、ここにいてはいけないと思うし、ここからどうしたら抜け出すことができるのかを日々考えているし、書いてきた。

ここで、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』でいう「動物になる瞬間」とは、第三象限から第一象限(没入している-つらくない)へと移る瞬間のことを指しているのだと思う。
そうすると、第三象限から第一象限へと移る手段はいくつか存在するように思う。

いま思いつくのは次の四つだ。
1.動物になる=熱中する
2.目的なき手段
3.誰かと「いる」
4.独りで「いる」

この4つのいずれかができた時、わたしたちはこの世界の奈落から救われる。
これらはグラデーションで、ひょっとすると1,3は第一象限にあり、2,4は第一象限と第二象限の間に位置するものかもしれない。
そして、ゆっくりとこの中で最も健全な状態だと考える、第二象限(没入していない-つらくない)に至るのだ。

5. 擬似熱中


前章では、補助線を導入して、「(世界に)没入していない」状態 = 主客分化の状態、「(世界に)没入している」状態 = 主客未分化の状態と定義し、第三象限(没入していない-つらい)から第一象限(没入している-つらくない)へと移る手段について以下の4つを列挙した。
1.動物になる=熱中する
2.目的なき手段
3.誰かと「いる」
4.独りで「いる」

しかし、これらはそれぞれ体得するには時間のかかるもので、難しい。
まだ身についていないのに、無理やり第三象限から第一象限へと移ろうとする時、”擬似熱中”とも呼べる状態をわたしたちは作り出すのではないだろうか。

いま、“擬似熱中”には次の二つがあるのではないかと考える。
一つ目が、インスタントな快楽
二つ目が、セカイ系の発動だ。

5.1 インスタントな快楽


インスタントな快楽は、主に興奮の加速度に依ると考えていたが、それだけでは説明しきれなかった。

多木浩二が『消費されるスポーツ』で、スポーツを知的な苦労を必要としない娯楽と評したが、これを踏まえるとさらに鮮明になりそうだ。
インスタントな快楽は、加速度の大きな快楽であり、かつその快楽を得るのに知的な苦労を必要としないものであるほど、”インスタントさ”を増す
そして、出口のない消費に円環するのだ。

無料動画やショート動画といった簡単に興奮できてしまうものが溢れていることによって、擬似熱中を求めてしまうことは事実だろう。
しかし、最も問題なのは、この環境的要因の事実によって覆い隠される心理的要因である。

國分功一郎, 熊谷晋一郎『責任の生成: 中動態と当事者研究』を読んでいると、トラウマのような思い出したくない何かを思い出さないために興奮しようとしているのではないかと思えてくる。
おそらく、この世界への孤独というトラウマだろう。

Photo by まひる

5.2 セカイ系の発動


セカイ系の発動については、これまで書いてきた通りだ。
ここに、セカイ系の”現実逃避感”が出るのだと思う。

ところが、同じ“擬似熱中”でも、インスタントな快楽とは異なる点がある。
それは、インスタントな快楽が出口のない消費に円環するのに対し、セカイ系は出口が存在するのだ。世界という出口が。(シンジくんは宇部に出てきた。)
この意味で、インスタントな快楽よりセカイ系の発動の方が健全といえる。

おわりに


このように「(世界に)没入していない-没入している」という横軸と「つらい-つらくない」という縦軸を引くことで、日常生活がよりクリアに見えてくる。

4象限のどこにいま自分がいるのかを自認することができたり、主客未分な状態への至り方をいくつか持っていることで、より精神的に健康的に生きられるのだと思う。これについては引き続き考えてゆきたい。

このようにして、セカイ系をめぐる議論は日常生活を考えることにつながり、さらに大きな枠組みの一部に当てはめるに至った。
これが現在見えている生活とセカイ系のパースペクティブである。
(おわり)

※この文章は2022年8月9日に書いたものです。

最後まで読んでいただきありがとうございます。ウェブ版『あの日の交差点』、Podcast『あの日の交差点』も覗いていってみてください。


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