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きこえない学校のイメージって?!

大阪府で起こった裁判の中で聾学校の教育についていろいろな意見があったわけなので、この際きこえない学校ってどういうものなのかということを自分の経験談として執筆する。

 かつて北海道の聾学校は、平成2年度(1990年)まで聴覚口話法が主体の教員研修及び、研究授業会が数多く実施されるほど、指導方法は手話を禁止され読唇術といった厳しい指導を児童生徒に叩き込みながら学習するということが一般的であった。手話を使う先生もごく一部存在していたが、当時の状況の話を聞くと周りのきこえる先生の重圧が厳しく、あまり自分らしさを出せずに我慢しながら模索しようと努力していたとく苦悩の日々だったらしい。きこえる先生が多数派であり、きこえない先生の立場は孤軍奮闘と味方も少ない当たり前のように自由のような指導する姿ということは夢のようになかなか厳しかったという背景があったという。

その頃に私(筆者)が生まれ、まもなく乳幼児相談に入りその先生方から聴覚口話法の様々な考えや指導について保護者にきつく色々と語っていたという。絵日記だったり、日常生活においてもとにかく口の形を読むことや話すことを徹底的に教えるように心掛けるべきだというやりとりが毎日のように行われていたと聞いた。この頃の保護者側もきこえる先生と同じように聴覚障がい教育の課題、手話法についての知識も全く知らないしきこえる人と同じようにするべきだという固定概念が強い気持ちで違和感なく、一致していたという雰囲気が当たり前だった。

 のちにあるデフファミリーの同級生の親が学校に対して不満をもっていたという。その親の集まりが新たなコミュニティーとして生まれ、今でいう「難聴児をもつ親の会」と「ろう児をもつバイリンガル親の会(HBBD」のコミュニティーが活動していたという経緯が当時の背景から生まれてきたのである。これについては、後日の投稿(「ろう学校の昔と今で変わっていることー後編ー」)に触れる予定である。

 筆者は、乳幼児相談室から聾学校に通い始めたので高校卒業までの18年間はきこえない世界で学んできたということになる。ではきこえない世界にある学校ってどういうイメージだろうか。

 当時、私が在籍していた聾学校の指導法は聴覚口話法が主体で厳しく受けていることが当たり前であり、今でいう「体罰」ともいえる過激な指導法を受けたことがある。体罰をしていた先生は今、管理職として勤務している者もいれば定年退職後も正しい指導法だったと主張して後継の教員研修に意見を述べる方も少なからず、存在している。この教員たちには私から見て反省するべきだと伝えたいが、もう時代の変化ということでここはやむ得ないと考える。当時の「体罰」の感覚と現在の「体罰」の感覚ゆえに「指導」の実績であるという基準が曖昧だからである。

私自身は、当時の指導法を良いか悪いかと聞かれたら正直誤っている部分はあったしもう少し気付く必要があり、手話を教えていくことも間違っていなかったのではないかと後悔する部分はある。現在の子どもたちは、羨ましい限りである。この羨ましい恵まれた環境の中で、自己選択を幅広く育ててあげることをこれからも大事にするべきだと伝えたいところである。

 平成20年にある問題が発生した。母校の後輩がある先生から許し難い体罰を受けたことがきこえない親のコミュニティによって聾学校の姿勢を非難する社会問題となった。私が在籍している前から当時の背景で学習してきた児童生徒が大きくなって大人になり、生まれてきた子どもを預ける身として聾学校の指導法に強い怒りを示すことがコミュニティーの中で、だんだん固くなってきた変化だろうと推理する。このコミュニティーの活動は、ろうあ連盟も協力的であり当時の教育委員会に対して、聴覚障がい児童生徒に対する教育環境の整備に強い批判を出した経緯がある。

この頃から、かつて当たり前だった聴覚口話法の徹底的な方向性が少々なくなっていき手話法の積極的導入を図る新しい教員研修や研究授業会の実施が増えるように変化した。筆者は、この時大学生であり、ろう学校の教員を目指すための履修中だったために一時的に母校の体罰問題を深く掘り下げ、「聴覚口話法と手話法の論争」を改めて知る機会となったのである。なお、体罰を受けた当時の子どもたちそして親には何度かお会いして意見交換した。教員として勤務していた時も一時的にお話しした機会はある。あの出来事がろう教育を変える大きなきっかけで良かったという。ただもう少し早く手話法を積極的に導入することが出来なかったのはなぜだろうか。と本州に比べて遅れていることの実態は厳しく、筆者も共感していた。共感している指摘については、後日に述べる「聾学校と特別支援教育の境界線に迫る」で執筆していく予定である。

 本州に比べ10年ぐらい手話法の導入が遅れている北海道のろう学校の教育現場では、教育委員会もまだまだ手話法という指導のあり方に関する知識も不足しており文部科学省や国立教育研究所の情報など手探りだった。教員研修の在り方も模索しながら、手話のできる先生の積極的採用も増え始めてきたのである。でも残念ながら、当時の手話のできる先生という視点が誤っているし現在もなお、教員の手話研修について多少、誤解している受け止めをするきこえる先生も多く存在していることをはっきり知って頂きたい。

私が見たろう学校の教育現場の事実は後日にいくつか執筆したいが、どれも非難しているわけではない。仕方なかったと思うことが強いだろう。きこえない先生を消極的に扱い、手話言語という認識を低く見られ、聴覚口話法がうまくなければ教員として使えないんだという固定概念がある限り、きこえない先生のロールモデル的な重要なポイントの効果も理解出来なかった歴史的な背景があって急に変えていくというのは時間が必要である。

 でも時代は流れ、2016年には手話を言語として認められ手話言語条例が各地で相次ぎ制定されそして手話言語法の制定に向けた国会議員による学習会の動きもあり、近い将来ろう学校の教育現場には手話言語を当たり前のように学び、使うことで児童生徒がきこえる子どもと同じように【自ら調べ・考え・行動する】という主体性と社会性が備わっていく環境になっていくだろう。そのためにはきこえる先生、大人たちが過去の実績を捨てて新しい知識教養をしっかり学ぶ受け入れる姿勢を柔軟に保ち、きこえない社会(コミュニティー)とのつながりを意識して欲しい。

管理職には目の前の仕事で精一杯だけでは、子どもたちのためにならない。もっときこえないコミュニティーそのものを少しでも考え、触れていくことで「きこえない先生とは何か。」きこえない先生が子どもたちに伝えようとしている「本質とは何か。」を考えることが、ろう学校の正しい教育であり子どもたちの良いロールモデル的存在なのである。私は、そのことをブレずにしっかりと保ち続けているが職場の環境(タイミング)が悪く、伝え方が難しい。過去の実績にパワハラという人間として向き合うことの姿勢がない教育委員会や管理職が存在する限り、現場復帰も遠いのが現状である。note執筆活動とオンライン授業の2本を通して、別の道からアプローチしていくことをこれからも継続していきたい。

 そういう中で、大阪の生野聴覚支援学校における民事裁判については非常に心に釘刺さる許し難い社会問題であり、論点となるきこえない学校の教育は昔と全く変わっている。「9歳の壁」というのももはや感じることないほど、指導法も多様に努力している背景がある。ということをまずしっかり、教員研修だけではなく、教科書として大学の教員養成カリキュラムにきちんと入れることが文科省の新たな課題である。と全日本ろうあ連盟は、何度も要望を出しているところであるが、いまだに希望通りの在り方には実現していない。

一刻も早く要望を受け入れ改善し、聴覚障がい教育の専門性がしっかり備わっていく教員養成カリキュラムがあってそれを履修した新しい教員が増え始め、また現職教職員も学び直すことによってきこえない子どもたちに寄り添う正しい教員の姿になって欲しい。私も日々、その日を願って今日も自分のできることから戦っていく。