見出し画像

聴覚障がい教職員の存在

久し振りに配信するデフ・スタディの時間シリーズ第15回目に触れておく。YouTube動画「北海道における聴覚障がい教職員の歴史」をぜひ視聴して頂ければ幸いである。その上で、今勤務しているきこえない先生方の人数は昔と比べて増加している傾向にあるが実は残念ながら厳しい環境に置かれていることは改善しておらず。転職、または自主退職するなど教職から辞めていくという苦しい気持ちを抱えている方も数人いることを知っている。

 その背景は様々な事情がある。かつて私も事情あって残念ながら、中途半端な気持ちで現場から離れなくなるほど、心残りの重い中途半端な心境である。スッキリしたわけではなく、非常に苦しい経験をしていることは過去の投稿記事からも伝えているだろう。一言はっきり申し上げるとすれば、文部科学省また教育委員会は現場をしっかり見ていない。そして管理職の上辺な姿勢で嘘の報告なりとしっかり向き合った姿勢を隠してまで、悪いことを事実として伝えようもしない。謝罪など向き合うこともなく、自分自身を守るという名誉というプライドで、一人の夢を壊していることの事実が現実にある。といったことが、現代における教育現場の闇である。

 ここでは、現場の闇を現代的に伝えることはしない。ただ昔は、それが理由上ではなく、戦争という時代背景の中で教授方法の考えによって辞めなければならなくて厳しく苦労してきたというきこえない先生方の歴史があるということをポイントとして伝えているのを紹介していきたい。

実は、昭和以前の聴覚障がい教育というのは、きこえる人よりきこえない人を最も大事に労わっていたという諸説がある。手話法を大事に広めていき、そこで学ぶきこえない子どもたちがたくさんいたということが伺える。しかし、戦争が激化するときこえない教職員はきこえる人の圧力に押しつぶされてしまい使えない人間として酷い差別や人間としての疎かな疎外感を見受けるようになってしまったという苦しい時期がある。その上に鳩山一郎大臣(当時)の口話訓示が大きく現場を変えるように、大量の聴覚障がい教職員が解雇されたという出来事があったといわれている。

 ここ北海道でもその影響を受け、聴覚障がい教職員はどのようになっているのかということを一つの視点として情報を集めてきたことを私なりに整理して、YouTube動画を作成したわけである。そこで分かったことは、手話法と口話法論争を通して、きこえない子どもたちと教員の関係づくりがいかにどのような影響をもたらすのか。ということである。

やはり結論を言うと、同じ障がいを持つ人同士しか分かり合えないという何かの力がとても重要であるということだ。いわゆるロールモデルの存在感は大きい影響を与える。そして教育現場には、夢を育むための場所であり教職員というのは一つの在り方を与えていくという希望であるわけである。先生という仕事はきこえる人だけではない。きこえない人も頑張っていけることは出来るよということがとても大事なことであると私は考える。

 しかしながら、それは表の気付くことであって、裏では夢という時点で終わるわけである。実際に働くとまだまだきこえる人の関わり方だったり、職場環境によっては理想通りに上手くいかないことは多いことである。免許通りに仕事できるわけでもない。サブとして補助的に低い立場で我慢しなければならないこともある。管理職や教育委員会の指示に従わなければ、生きていけないということの大きな壁が色々と立ちはだかるのであるのが現状である。

 そのために私の知っている中で何人かか。転職したり、辞職したりしてしまうことを耳に入っている。また現職の方も我慢しつつ、本来あるべき姿を発揮していないことが多く見受けられている。きこえる人に合わせようとしているきこえない先生方の姿が私にとっては、理解できないのである。きこえない教職員として何が必要か。そしてきこえない子どもに良い影響を与えるということは、その人しか出来ない力があるはず。これをもっと強く伝えてあげることが必要ではないかと考える。

 文部科学省、そして教育委員会は口答えで偉そうにこう言います。

「きこえる教職員にはないきこえない先生方の力は、児童生徒に良い影響があることは伺っています。だから協力は不可欠です。」「当事者性としてしっかり働きやすいように職場環境の合理的配慮、そして同じ障がいをもつ教職員の積極的採用を図ります。」「研修などにもぜひ人材活用して、きこえる教職員への専門性向上にもつなげていきます。」

この話を聞いているけれど、実は上辺だけで判断するかどうかは地域ごとに異なるし、また学校現場ではそう影響を強く与えることはない。学校現場にいる管理職その人間に決定権や指示・判断する権利があるだけで結局は、その人の考える姿勢だったり耳を傾ける、取り組む姿勢に専門性の理解があるかないかということである。文部科学省も教育委員会も厳しく指導することはない。意見を聴取することだけであまり求めようとしないことが、裏の実態であり、学校現場に異なるわけである。そこに私は最大の被害者として、非常に残念な気持ちで恨むわけである。国に改善を求めようとしてもトップダウンというところの効果はあまり期待できず。結局、現場を見ないという一言が厳しさを表現するのである。

 聴覚障がい教職員というのは、かつて児童生徒だったころに学んできた受身側の経験でありながら、社会に出て気付いたことが多くその学びをどのようにして児童生徒に伝えていくのかということはとても重要性が大きいし、とても多く良い影響を与えることはあると私は考える。しかしながら、その部分を失うように大事に尊重されていないことが教育現場としては、もったいないと考える。手話言語だけではない、学習内容において、きちんとロールモデル的な存在感を出してあげることが、ろう学校そのものに大きな課題と私は強く考える。

 その原点として、動画内に挙げていることは口話法・手話法の論争で解雇されたきこえない先生方の想いを改めて学ぶことが必要としているわけである。歴史から学ぶことでもう一度、聴覚障がい教職員の存在はどうなんですか?ということを問い直してもらえるきっかけになればと思う。