見出し画像

手話言語と日本語について考える

 私が、最初に学問に悩んでいた一つのきっかけとして数学嫌いである。というより、小学生の頃のお話になる。この経験は、きこえない人それぞれ似たようなことをしているはずだろう。

 それは、手話言語で説明を受けていたら理解できるという視覚言語であるのは間違いなく、そう言い切れることはあるかもしれない。とよく色々な人のお話からまとめると多数派かもしれない…。でも実は、一方で見過ごせないという課題を探すというという。別の視点で深く考えていくことが私の性格上の行動である。今回は、その一つの内容を挙げてみたい。

 ある算数を指導するときに、こういう問題文がある。(見出しの画像)

「子ども1人ずつ6人に折り紙を8枚ずつ配ります。折り紙は、全部で何枚必要になりますか。」

という初歩的な問題であるが、実はきこえない子どもたちの正答率はきこえる子どもより低い。しかも間違った計算式をすることが多いのである。きこえる子どもときこえない子どもの捉えが違うという点が不思議である。小さい頃の私も間違いをしていたという経験を聞いたことがある。

ではなぜ間違えてしまうのか。実は、問題文を声で聞こうとすると耳が聞こえないため、文字情報として掲示する必要がある。また手話言語で伝えようとするという選択肢がある。

<文字情報の場合>→「ずつ」という接続詞が2ヶ所ある。       この点で誤解した理解を受け止めてしまうわけである。「ずつ」というのは、『それぞれ』という言い換えることと考えてしまうので1人ずつという前置詞の数字を見ないで、後の数字を見てしまって計算するという思考が動くことになるわけで以下のように計算する例がある。

【誤答例1】6人ではなく、「1人に8枚ずつ」というので計算が分からない。とりあえずは、8枚とそのまま回答する人もいる。(※実際に回答している生徒もいたことがある。)

【誤答例2】6人×6(ずつ)+8人×8(ずつ)=100という人もいる。私たちには唖然する思考でもある。これは、文章力の欠如として深刻だと感じる判断になる。

<手話言語の場合>→「ずつ」という表現を上手く伝える必要。   「日本語対応手話」と唱える表現でいうと、しっかり丁寧な感じで「助詞」を指文字で付けてくるわけなので、2つの文に切り離して見ることが出来るわけである。

子ども「が」6人いる。/6人「に」折り紙を8枚(ずつ)配る。

だからこの表現でいうと、子どもが6人いる状態が想定されてそれぞれに8枚もらっているようすというイメージが伝わってくることになるわけである。「ずつ」という日本語を優しく置き換えると、「それぞれ配った」感じという手話表現で示しているからだ。「助詞」を付けることで(目的)、(位置)が見分けることで空間的概念が頭の中で掴みが上手に理解できる子もいるわけである。

しかしながらここでも実は、困っていることがある。「日本手話」と唱える表現でいうと、ここは「助詞」を指文字で付けることはなく、表情で抽象的な概念を伝えるといったことになるわけであり、問題文の理解がなかなか難しいと捉える子どももいる。これが教職員の手話言語で指導するにあたっての専門性として、重要な位置づけになるわけであると私は考える。

 この手話言語で指導することの専門性を正直、残念ながら当事者でないと説明できないので、管理職や教育委員会を始めとする多数派は上手く理解するように努める必要があることをしっかり認識していないことが聴覚障がい教育としての根本的課題である。(この諸説の議論は、今もなお当事者団体の多くが訴えている現状であるので、詳しくは触れていかない。)

 でも文字情報と比べて手話言語できちんと解き方を視覚化してイメージして理解させるという指導は、とても重要なプロセスであると考える。私は、その視覚化で理解するというプロセスの大切さをぜひ磨いていきたいと今もなお、蓄積中であるが「数学」というのは非常に大きな学びになる。私の持つ「社会科」や「情報科」にも視覚化で理解するプロセスを整理していきたいと思っている日々である。

「一人ずつ6人に折り紙を8枚ずつ』というのは、書記日本語でそのまま捉えると分かりにくい。では、「6人の子どもに折り紙を8枚ずつ」といったように日本語を優しくしていくことで、これらを手話言語に置き換える。文字情報では、やさしい日本語という表現でなければ、きこえない子どもの正答率は上がらない。実にきこえない子どもというのは、外国人に教えるのと同じ考えでなければならないと唱える人もいる。これは、私もなるほど!と共感を感じる大きな学びの一つである。これを皆さんに知っていただければと思っている。