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日中相互理解促進へ尽力 小島康誉さん新疆ウイグル自治区で遺跡保護研究や人材育成

 日本と中国が国交正常化して半世紀が過ぎた。以来、日中関係は経済、文化、人的交流等の幅広い分野で、着実に進歩を遂げているが、尖閣諸島の領有権問題をはじめ、中国と台湾との緊張や新疆ウイグル自治区の人権問題などの困難な課題もある。その「新疆を第二の古里」とし、改革開放以降の発展を見守ってきたのが、新疆ウイグル自治区政府顧問の肩書を持つ小島康誉(やすたか)さんだ。実業家から僧侶になり、文化遺産保護研究や人材育成

人民網の日本駐在記者の取材に応じ、新疆との深い縁、新疆の文化遺産保護に関する40年の変遷を語る小島康誉さん(2018年6月、人民網HPより)

事業に力を注ぐ「一衣帯水」と言われる日中両国にあって、中国の広大な沙漠を緑化しようと一筋の道を歩まれた故遠山正瑛さんに続き、草の根の活動を実践する小島さんの数奇な生き方を取り上げる。

長年の献身的な活動に、中国から数々の顕彰

 日中国交正常化50周年の昨年2月、在日中国大使館の楊宇臨時代理大使は、小島さんと会見し、「小島先生は長期にわたって日本と新疆の友好交

日中国交正常化50周年で駐日中国大使館の楊宇臨時代理大使と会見する小島康誉さん(2022年2月、駐日中国大使館HPより)

流・協力に尽力され、新疆の経済・社会発展、特に教育・文化事業の進歩を後押しし、日本各界の新疆への理解を深めるのに重要な貢献をした」と、感謝の意を伝えた。
 これに対し、小島さんは「新疆は私の第二の古里であり、引き続き新疆の発展を促進し、日本社会に本当の新疆を紹介するために努力していきたい。新型コロナが収束した後、新疆を再び訪ねることを心待ちにしている」と述べた。 小島さんは1982年に初めて新疆を訪問し、これまでに150回余り訪れている。長期にわたって新疆の文化・教育事業に関心と支援を寄せ、キジル千仏洞の修復に貢献するとともに、新疆大学に「小島康誉奨学金」を設立し、寄付金で複数の中日友好希望学校を建設した。さらに、ニヤ遺跡の日中共同学術調査を実践し、多額の資金援助もしてきた。
 こうした小島さんの献身的な文化活動によって、新疆ウイグル自治区人民政府の文化顧問となり、中国政府から1995年の中国全国人民代表大会「環境資源保護委員会栄誉賞」をはじめ、中国ウルムチ市の「名誉市民賞」(1997年)、中国人民対外友好協会からの「人民友好使者」(2010年)などを受けている。
 また2001年6月に「小島康誉先生新疆来訪20周年記念大会」、2011年にも

大々的に開催された「小島康誉先生新疆来訪20周年記念大会」(2001年6月、楊新才記者撮影)
「小島康誉先生新疆来訪20周年記念大会」で中国文化部より文化交流貢献賞を受ける(2001年6月、楊新才記者撮影)

「小島来訪30周年記念大会」が大々的に開催された。中国で外国人、まして

二度目の「日本友人小島康誉先生来訪新疆30周年記念大会」(2011年9月)
「30周年記念大会」一環の写真展。新疆政府副主席らと参観(2011年9月、楊新才記者撮影)

日本人の個人的な顕彰は稀なことであり、しかも2度も開催されたのは異例の出来事といえよう。
 中国ではこうした貢献について「10年は偉大、20年は驚嘆、30年は歴史的」と評価している。2015年に小島さんと会談した新疆ウイグル自治区のトップ張春賢党書記は「小島康誉さんは長年にわたり新疆の文化、教育事業などに協力し、新疆人民と深い友情に結ばれている」と最大限の賛辞を送っている。

宝石商を創業し上場、54歳の時に僧侶へ転身

「人生100年時代」と言われ始めたが、小島さんほど見事な転身を成し遂げ、数奇な人生を歩む人は稀だ。1942年、名古屋市に生まれる。名前の康誉は「健康に生き、名誉ある死を」との親の願いが込められたとか。
志望校の名古屋大学に落ちて、自らの意思で職業訓練校に進む。ブロックを扱っていた建材関係の中規模会社に就職するも、仕事よりロッククライミングなどに熱中する。休みには競馬場に通い独立資金稼ぎをした。
「いつか何か自分でやりたい」との思いから会社を辞めた。「同じ石でもブロックの原料より単価の高い宝石を」と着想する。新聞求人欄で見つけた宝石卸商に入り、加工場で指環技術などを習得し、営業や販売も経験する。
そして1966年、24歳の時に「宝石の鶴亀」(後の「ツルカメコーポレーション」、本社・名古屋市)を創業した。「鶴は千年、亀は万年」と長続きを願

「ツルカメコーポレーション」本社社内での小島康誉社長(1990年頃)

って命名した。会社はその後合併して現・エステールホールディングス (本社・東京都港区)になっている。
たった一人で商売を始めたが、借金を重ねながら店を構える。一人また一人と社員を増やし、スーパーへの出店を続け、チェーン店化に乗り出した。「宝石は愛のファッション」と宣伝し、主婦でも手の届く低価格での売り込み作戦が人気を呼び、急成長を遂げた。なんと最初の社員が後の奥さんになる。
一芸面接や社外研修など人材育成に努める一方、宝石だけでなくゴールドやプラチナ時計も販売し、アンティークカーペット、アート事業などへも参入する。業界に先駆けてテレビの通信販売に乗り出すなどの挑戦を続けた。社業は繁栄し、1993年に念願の名古屋証券市場への上場を果たす。
小島さんは「商業を通じて社会に奉仕しよう」を社是とし、社会貢献事業なども創設した。創業30年、売上高1658億円(累計)、社員655人・店舗数156店(期末)と社業も発展していたそのタイミングで、後任社長に取引先だった伊藤忠商事の取締役を迎え、退任したのであった。
人生の転機は、いつどこで訪れるか分からない。龍源寺の松原泰道老師のインド仏蹟巡りに同行した人が主催した仏蹟巡拝に、経営者ら数十人と参加した。この旅で、玄奘も参拝した霊鷲山(りょうじゅせん)に登った時に不思議なことを体感する。釈尊の説法を自分も直に聴いたと実感し、涙が止まらなかったそうだ。
この仏縁がきっかけとなり、経営者一筋の人生に疑問を感じた。忙しい社長業の傍ら、佛教大学の通信教育課程に42歳で入学した。しかし3回生の頃、疑問が生じた。小島さんが学びたかったのは仏教なのに、大学で教えてもらえるのは仏教学だったからだ。卒論の指導教官であった小野田俊蔵(しゅんぞう)助教授(後に教授)に相談すると、「それでは僧侶になるしかない」との答え。小野田助教授に紹介された師僧は、畏れ多くも今は亡き水谷幸正(こうしょう)学長で、小島さんの願いを快諾された。
さっそく阿弥陀様の軸が掛けられた大学宗教室で剃髪の儀式を受け、得度を終える。卒業後、加行(かぎょう)課程に入り、法衣の着方から木魚のたたき方や経典の唱え方などを合宿で学び、最後には浄土宗総本山知恩院で伝宗伝戒を授かり、晴れて47歳で浄土宗の僧侶になった。
年中無休の仕事だったが、2日、3日と休みを取り、東海道五十三次の約500キロを何回かに分け、念仏行脚した。中山道や日光街道、奥州街道も歩いた。小鳥のさえずりや風の音を友として、阿弥陀仏に導かれたな貴重な体験だった、と振り返る。1998年には交通事故殉難慰霊をと、鹿児島の佐多岬から北海道の宗谷岬まで日本縦断3200キロを80日間かけ、お経を唱え続けての念仏行脚を達成した。

日本縦断3200キロを80日間かけて行脚。宗谷岬にて(1998年、観光客撮影)

荒廃のキジル千仏洞修復へ浄財、世界遺産に

中国への国際貢献のきっかけは、宝石の買い付けで1982年に新疆へ出向いたことに始まる。ビジネスにはならなかったが、豊富な文化遺産に惹かれた。86年の渡航時、中国四大石窟の一つ、キジル千仏洞を参観することができた。敦煌、雲崗、龍門と並ぶ四大石窟の中でも、もっとも古いキジル千仏洞は、3~8世紀にかけて約3キロにわたって開削され、寺院や僧坊が造営されている。

キジル千仏洞に架けられた木製の梯子や足場(1986年、小島康誉さん撮影)

 川に面した断崖を穿(うが)って掘られた約300の石窟の一部には仏像が祀られ、延べにして1万平方メートルに及ぶ壁画が描かれていた。しかし、大谷探検隊はじめ各国の探検隊が壁画を大量に剥ぎ取って自国に持ち帰り、博物館に陳列した。さらに不心得者の盗掘や長年の風雪で、キジル石窟は荒廃してしまった。
 残されているラピスラズリの青で描かれた壁画を見た小島さんは、仏教美

部分的に剥ぎ取られたキジル千仏洞・第38窟の痛々しい壁画(1988年、小島康誉さん撮影)

術の粋とされる美しさに圧倒された。日が暮れ道に迷う旅人に自らの手を燃やして明かりとする釈尊、飢えた虎の親子に身を差し出す釈尊……。前世の物語などが色彩豊かに描かれていた。小島さんは「人類共通の文化遺産だ」と直感し、即座に10万人民元(約450万円)の寄贈を申し出て帰国後すぐ送金した。

剥ぎ取られたキジル千仏洞・第224窟で手を合わせる小島康誉さん、楊新才記者撮影)

 小島さんは、しばらくして再び新疆を訪ねる。中国政府が本格的な修復に乗り出すと聞き、日本で浄財を募り1億円を寄付しようと申し出る。有言実行が信条の小島さんは「日中友好キジル千仏洞修復保存協力会」を設立し、専務理事を引き受け、募金活動に奔走した。苦労を重ねた末、3000を超す企業や個人の賛同もあって1億円を超す浄財を集め、1988年と89年に分けて贈呈した。

修復保存工事中のキジル千仏洞(1988年、小島康誉さん撮影)

 日本からの寄付もあって、キジル千仏洞は壁画の保護や断崖の補強、回廊の整備など修復が進み、現在では日本人ら多くの観光客を集めるようになった。小島さんはその後も研究者や観光団を派遣したり、職員用の大型バスや飲料水浄化装置を寄付したりと、継続して支援している。そして2014年、キジル千仏洞は世界文化遺産に登録された。その陰で日本の一市民が修復に尽力したことは画期的なことといえよう。

修復後のキジル千仏洞(1989年、小島康誉さん撮影)

日中共同ニヤ遺跡学術調査の日本側隊長に

小島さんは、キジル千仏洞の修復保存活動で何度も新疆に足を運ぶ過程で、新疆文化庁の韓翔(かんしょう)処長から「新疆には3つの重要な遺跡があります。有名な楼蘭は基本調査が終わり、キジルも日本からの援助で修復が進んでいますが、規模の大きいニヤの本格調査が行なわれていません」との話を聞き込んだ。

ニヤ遺跡をめざして沙漠を前進(1988年、小島康誉さん撮影)

 天山山脈と崑崙(こんろん)山脈に挟まれたタクラマカン砂漠南端の奥深くに位置していたニヤ遺跡は砂漠の奥に静かに横たわっていたのだった。1901年になって、後にイギリスの国籍を持つ探検家オーレル・スタイン(1862-1943)によって発見された。遺跡は南北に25キロ、東西に7キロにわたって確認され、高さ6メートルの仏塔をはじめ、民家、水路、畦、墓地などの遺構が残っていた。

沙漠に点在するニヤ遺跡の木材遺構部分(1990∸91年、学術調査報告書より)


 一方、西域南道に栄えた楼蘭王国は、1980年にスウェーデンの探検家スウェン・へディン(1865-1952)に発見され、世界中から注目を浴びた。その後に発掘されたミイラは1992年、「楼蘭王国と悠久の美女展」として日本でも公開された。7世紀には玄奘三蔵が帰路に通過したことが『大唐西域記』に記載されている。
 ニヤ遺跡はスタインの発見によって、楼蘭をはるかに上回る規模で残存していることが分かり、世界的に注目されたにもかかわらず、本格的な調査は先送りされていた。なにしろタクラマカン砂漠の奥深くにあって、動植物も生存していない不毛の地。まさに神秘のベールに包まれた幻の古代都市であった。
 小島さんは1988年10月、新疆文化庁とニヤ遺跡調査を開始した。日中共同の第一次予備調査は、ラクダに乗って3日がかり、紀元前1世紀の仏塔や住居址を見た時には衝撃が走った。通常の遺跡では土中に埋まっているものを発掘するのだが、ニヤでは違っていた。陶器・鉄器・動機・銅銭・木器・宝飾品・文書などの出土品の一部は、地表に露出していたのだ。わずか2日の滞在だったが、遺跡概要を把握できた。帰国後、さっそくニヤ遺跡の研究保護活動に着手する。
 1990年と翌91年にも第二、第三次の調査を継続し、92年には中国国家文物局(文化庁相当)の正式許可により、日中双方での総合調査を目的とした協議書のサインにこぎつけた。この年の第四次調査からはこれまでの出土文物の研究も行ない、日本の文部省の科学研究費が付いた。1993年の第五次から3週間におよぶ大規模な調査となり、サポート隊を含めスタッフは60人規模

日中共同ニヤ遺跡第五次調査隊の記念撮影(1993年、佛教大学内ニヤ遺跡研究機構提供)
第五次調査時のニヤ遺跡の住居遺構部分(1993年、小島康誉さん撮影)

に増え、砂漠用の車も導入した。こうした実績が評価され、94年には中国国家文物局から外国隊第1号の発掘許可を取得した。これに伴い、佛教大学に「ニヤ遺跡学術研究機構」(代表=水谷幸正学長、小島康誉)を発足させた。
 1995年10月に行なわれた第七次の調査で、「五星出東方利中国」の八文字が織り込まれた極めて珍しい彩色の錦織の肘当てを発掘した。中国では古くから東の空に同時に五つの惑星が現れることは吉兆だとされている。この年、中国各地で行なわれた発掘調査の十大新発見の一つに数えられた。錦織は2002年1月に「出国展覧禁止文物」64点の一つに選ばれた。いわば「中国の国宝中の国宝」になったのである。

小島康誉さんらによって発掘された「五星出東方利中国」の錦織の肘当て。中国の国宝に指定された(1995年、 佛教大学内ニヤ遺跡研究機構提供)

 小島さんは日本側隊長として、新疆ウイグル自治区文物局・新疆文物考古研究所との日中共同調査の先頭に立ってきた。調査には佛教大学のほかにも龍谷大学、京都造形芸術大学、奈良国立文化財研究所、京都大学、国家文物局、北京大学、中国社会科学院などの機関に所属する多数の研究者が加わった。
 九次にわたる学術調査で、250以上の遺構を見つけ、正確な測量図を作り、数多くの文物を発掘した。現地調査は1997年に一区切りをつけ、日本側は調査機器などすべての装備を中国側へ贈呈した。それ以降は文物研究と関連図書出版に力を注ぎ、合計すると1704ページに及ぶ詳細な第一次・第二次・第三次報告書を出版している。10年間、9回にわたって実施されたニヤ

1704ページに及ぶ詳細な第一次・第二次・第三次の学術調査報告書

遺跡の考古学調査などに総額で数億円もの巨額を提供したのであった。

ニヤ遺跡の資料などを見て自宅でくつろぐ小島康誉さん(1997年、BUTSUDAIより)


 ニヤ遺跡にとどまらず、小島さんは1996年には、日本人にとって「幻の王国」とされていた楼蘭遺跡にも足を踏み入れ、仏塔で般若心経を唱えてい

楼蘭遺跡の仏塔で般若心経を唱える小島康誉さんら(1996年、楊新才記者撮影)

る。さらに2002年10~11月に日中共同ダンダンウイリク遺跡学術調査に乗り出す。こちらでも仏教壁画を発見し、朝日新聞(2002年12月9日付け朝刊)に、「謎の遺跡から仏教壁画 中国・新疆ダンダンウイリク 日本の研究者発見」》と大々的に報じられた。焼損した法隆寺金堂「鉄線描」壁画の源流「屈鉄線」壁画であった。その後の研究や修復にも尽力している。

ダンダンウイリク遺跡を目ざす日中共同学術調査隊(2002年、小島康誉さん撮影)
ダンダンウイリク遺跡調査で壁画を発見し、保護のため緊急試掘する隊員たち(2002年、小島康誉さん撮影)
小島康誉さんらによって発掘された壁画「西域のモナリザ」(2002年、小島康誉さん撮影)
「謎の遺跡から仏教壁画見」を報じた、朝日新聞(2002年12月9日付け朝刊)

『ありがとう 人生燃えつき店じまい』の自叙伝

 私が小島さんを知ったのは、1997年8月末、薬師寺の安田暎胤(えいいん)執事長(現長老)、順惠(じゅんけい)さん夫妻に同行し中国を旅した時のことだ。北京空港ですれ違いざまに偶然出会って以来、薬師寺境内で袈裟姿の小島さんと何度も顔を合わせることになった。薬師寺の法要行事などに、なんと三日もかけて自宅から歩いてくるのだ。法衣に網代笠(あじろがさ)、手に錫杖(しゃくじょう)、時には雪駄(せった)をスニーカーに履き替え、南無阿弥陀仏を唱えながらの念仏行脚を、僧侶として仏門生活の基本にしていた。
 安田さん夫妻を囲む席で親しく懇談したり、著書や遺跡調査の資料を贈っていただいたりした。私は小島さんの生きざまを知るにつれ、驚くことばかりだった。僧侶に転身したが、寺には入らず、社長退任後は三重県東員町の妻の実家に世話になり、義母と三人暮らしをしていた。現在は東京・品川のマンション住まいだ。
2013年春、分厚い書籍小包が届いた。開けてびっくり。558ページもの自叙伝だったからだ。本のタイトルが『ありがとう 人生燃えつき店じまい』(東方出版)。サブタイトルに《「ダイヤモンド的人生」論 笑って働き食べ飲み出し寝た》とあり、オビの文章を見て笑ってしまった。〝塩爺〟こと元財務

自叙伝『ありがとう 人生燃えつき店じまい』(2013年、東方出版)の表紙

大臣の故塩川正十郎さんが《小島さんは珍しい人、面白い人、真面目な人、幅広い人、一般の枠に入りきらない奇特な人だ》と評している。小島さんを知って、まもなく25年になる私も納得だ。
 小島さんの活動は中国への文化財保護支援だけではなかった。『ありがとう人生燃えつき店じまい』でも、東日本大震災の被災地支援活動を131ページにわたって伝えていた。小島さんが現地に入れたのは、大震災約2カ月後の5月7日だった。名古屋から仙台空港へ着陸直前の海岸数キロは全滅状態

東日本大震災の慰問と供養のため何度も現地入りし、お経を唱える小島康誉さん(2012年8月、石巻市の大川小学校で)

だった。廃墟となった家々や工場などを巡って回向。翌月からも慰問品をいっぱい持ち込んだ。「みんなで泣こう。みんなで進もう。みんなで笑おう」を合言葉に、東北行脚は震災直後から20回を超える。
 小島さんは、やはり上記の自叙伝『ありがとう 人生燃えつき店じまい』で、自分の人生を達観して、次のように記している。

人生とはある人にとっては夢への進軍であり、ある人にとっては夢から
の離脱であり、殆どの人とっては生活との戦いだ。進軍も離脱も生活と
の戦いもすべて良し。自分の人生を自分色に染めるだけ。経営者に始ま
り、僧侶、文化財保護研究、公共外交実践と格闘してきた中途半端70
年。笑わば笑え。人は人、自分は自分。ガラクタ人生また楽し。

 小島さんはことさら日中摩擦を懸念し、武力衝突などに発展しないことを念じている。「先の戦争の影を引きずった日中友好乾杯の時代は終わらせるべきだ。両国の国益は違うのだから、それぞれ主張し合って当然。日中友好をベースに第2段階は相互理解の時代へ、第3段階は日中共同事業の時代に入るべきだ」が持論だ。

小泉純一郎首相と元塩川正十郎元財務大臣に「ニヤ遺跡調査」の報告をする小島康誉さん(2006年8月)
小島康誉さんと東京での懇親。左端が筆者(2007年12月)

 大きな大きな愛に国境はない。「大愛無疆」こそ、小島精神を支えたモットーであり、真髄と言える。有言実行を貫く小島さんだ。そうそう簡単に

ウルムチの紅山公園の石畳に水筆でモットーとした「大愛無疆」の文字を書く小島康誉さん(2010年、楊新才記者撮影)

「店じまい」とはなりそうにない。(近年の活動は、小島康誉著『中国新疆36年国際協力実録』(2018年、東方出版)、やブログ「国献男子ほんわか日記」(フォルテ文化ミュージアム)に詳しい)。

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