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いつから好きな芸人さんに「勝ってほしい」と思うようになったのか

僕が10代を過ごした1990年代は、大きなお笑いの賞レースがない時代でした。『オールザッツ漫才』の中で若手トーナメントがあったりはしたけど、あくまで特番の中の一部と言う感じです。

僕は『すんげーベスト10』や『爆笑BOOING』といった関西ローカルの深夜番組が日々の楽しみという、よくいるお笑い好きの学生でした(どんな番組かわからない方はなんとかして調べるか見つけてください)。

インターネットもろくになければ配信なんてもってのほかで、深夜で大暴れする芸人さんたちを見て、同級生たちと「野性爆弾おもろー!おもろいけど全国では絶対売れへんやろなー」とか休み時間に話していました(失礼な話ですが、10代の頃のことなので許してください)。

芸人さんたちは全国ネットのスターを目指していたと思いますが、深夜番組で見る人たちは「自分たちだけが好きな芸人」という存在で、閉鎖的な感覚も含めて楽しんでいたのだと思います。

2000年代に入り、M-1が始まったことでお笑い界の雰囲気は変わり、僕自身もテレビ局で働きだすことで、お笑いとの向き合いは変わって行きました。

自分の好きな芸人さんや一緒に仕事をした芸人さんの賞レースでの活躍、はっきり言うと『優勝』を願うようになりました。

お笑い好きな方はそうだと思いますが、応援している芸人さんが賞レースの決勝に進出した時は、それはもう手に汗にぎって笑うのも忘れるくらいでした。

2018年のM-1決勝で和牛が準優勝に終わったとき、それを家のリビングで観ていた僕はポロポロと泣いてしまいました。すると、隣で観ていた当時小学5年生だった息子が、僕の肩に手を置いて「まぁまぁそんな泣かんと…」と言ったのです。ちなみに、4年経った今でもそのことを覚えているそうです。父親が泣く姿ってあんまり見たことないですもんね。

まぁこれは笑い話みたいなことなのですが「勝ってほしい」という気持ちが強くなると、その熱量は「他の芸人さんと比べる」というベクトルにも向かっていきます。(2018年の僕の涙は他の芸人さんと比べたものではなく「今年も届かなかったか…」という悲しさで、出ている本人たちが一番悔しいはずなのに勝手な話ですが)

その「比べる」という熱量は、やがて「批評」に形を変えます。SNSが普及したことで、どこの誰だかわからない人の批評を目にするようになってきました。先日の『ABCお笑いグランプリ』をABEMAで観たのですが、言いたい放題なチャット欄を見て、しんどくなってすぐに閉じてしまいました。

戦いの場に出ていく人を応援する以上、勝利を望むのは当たり前のことだとは思いますが、好きな芸人さんが負けた時「自分は好きだ」と思う気持ちに変なノイズ(〇〇に負けている…とか)を入れたくないのです。もちろん楽しみ方は人それぞれ自由なのですが。

これからも賞レースは続いていくし、それを楽しみにしている自分はいます。好きな芸人さんの活躍は願うし、たくさん笑いたい。でもその熱量を変な方向に向けずに楽しみたいし、中学生の時の「俺たちだけの野性爆弾」という感覚を大事にしたいと思うのです。