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『ちちんぷいぷい』という戦場

21年半続いた『ちちんぷいぷい』が、この3月で終了した。僕は20代の頃に3年、30代後半で1年、計4年携わった。正確には会社から内定が出たあと1年間、バイトとして働いていたので、計5年。

視聴者の方から見るとほのぼの、のんびりした番組だと思うが、実情は毎日戦場の如く多くの人の汗と涙が流れ、バイトの時から一瞬も気の休まることのない番組だった。

数えきれない人が関わった番組なので、ここで僕が記すこともほんの一部分に過ぎない。それでも『ちちんぷいぷい』という戦場のことを書こうと思う。

戦場という以上は敵がいる。敵は誰か。初代パーソナリティの角淳一さんだった。別に悪者でもないし、憎むべき相手でもない。でも角さんを驚かせること、笑わせること、本気で喋らせること、それが僕にとって何よりのミッションだった。

角さんは誰よりも正直な出演者であり、視聴者だった。つまらないものは放送中でもつまらないと言うし、他局のことだろうがおかまいなしにいいものはいいと褒める。いいカッコしようとする番組やタレントが多いなか、角さんの物言いはダントツで痛快で、刺激的だった。

角さんはいつでも角さん

僕が入社3年目で結婚したとき、『ちちんぷいぷい』についていた僕は、結婚式の主賓挨拶を角さんにお願いした。僕はまだADだったが、角さんは快諾してくれて式当日を迎えた。角さんは挨拶の冒頭で「えー、山内くんは、主にCMになったら僕の椅子を出したり引いたりしてくれています」とめちゃくちゃ正直に言った。会社の上司は笑っていたが、新婦の親戚一同がザワついてた。角さんはそういう人だった。

角さんに戦いを挑んでは敗れ、多くの優秀な先輩たちには手取り足取り教えてもらいながら、僕はADからディレクター、大きな企画や曜日を仕切るチーフディレクターへと階段を登っていった。

角さんを打ち負かした日

2008年の夏、『オーサカキング』という局をあげたイベントがあり、僕は『ちちんぷいぷい』5日間20時間分の総合演出を任された。火曜日は、ロザンの宇治原さんが沖縄の民族楽器である三線を大きなステージで披露する企画だったが、宇治原さんの成長が順調すぎて問題になった。僕らスタッフは、相方の菅さんに「ラストに、琉球太鼓を叩いて乱入して、おいしいところを全部持っていってもらうドッキリを仕掛けたいんです」と相談した。菅さんも企画にのってくださり、迎えた本番当日。

菅さんのドッキリはこれ以上ないくらいうまくいき、スタジオも会場も大盛り上がりだった。スタジオで見ていた角さんは「東京でさんまとたけしがやることを、ロザンが大阪でやってくれた!」と手放しで賞賛してくれた。

「角さんを打ち負かした!」

僕はこの時の感覚が未だに忘れられない。

1年後、僕は「完璧かどうかはわからないけど、やれることは全部やったのでバラエティをやらせてください」と上司に話し、番組を離れた。その数年後、角さんは卒業という形で番組を去った。

角さんがいなくなってから

30代後半になって番組に戻ったとき、その中身は大きく変わっていた。角さんの代わりになる人はいなかった。

敵は自分になった。自分が納得する内容を仕掛けたいと、また多くの人を巻き込みながら1年間もがいた。しかし思っていた以上に壁は厚く高く、そして僕はそれを痛感したところで東京転勤になった。

『ちちんぷいぷい』という戦場はいったん幕を閉じたが、アナウンサーや芸人さんも、スタッフにも戦友と思える人がたくさんいる。(迷惑をかけた人もたくさんいると思います、すいません)

角さんと番組から学んだこと

僕が番組をやって一番学んだことは「できないことは頼る」ということだ。お金もスタッフの人数も潤沢ではない関西のローカル番組は、街の人に頼りきりだった。学生さんたちにその日の晩御飯を聞いたり、道に迷っている人を勝手に見つけて案内したり、そんなことばかりだった。

ただ「関西の人は頼られたい」と勝手に思っている(当てはまらない人、すいません)。

僕が作る番組は、いつも誰かに頼っている。自分だけで作れた番組なんて一つもないし、これからもそうだと思う。

僕が番組についたのはたった5年だが、21年半の長い間、戦場の最前線で指揮をとり続けて来た先輩や後輩や同僚、それに参戦してくれたスタッフ、ボスとして君臨し続けてきた角さん、角さんなき後ももがき続けたMCと出演者の皆さん、そして頼られまくってくれた街の皆さんに勝手ながら心から感謝します。

ちなみに今度僕がやる特番も、しっかり街の人の助けを借ります。よろしくお願いします。

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