見出し画像

老年期少年小説 「誰もいなくなったのはなんで?〈11〉」【いつになったら抜け出せるのか④】

「はい、オレンジジュースどうぞ」
尾藤アサヒマスターがジュースを出してくれた。

しばらく、100%のジュースどころか、果物も食べていない。
むさぼるように一気に飲み干した。

「うまい!」
思わず、顔が笑った。

かっちゃんが、驚いたように言う。
「マスター、さっき自殺志願みたいな顔で来たお客さんが、
生き返ったように笑ってるよ(笑)」

「そうですか…私、店に入ってきたときに、そんな顔してましたか?…」

マスターが穏やかに答える。
「ランチタイム終わって、人がかっちゃんだけだったから…
インパクトあったんだよね。悩みでもあるのかなって…ここが海辺の崖なら確実に取り押さえたかな(笑)」

憧れのロックスターにそんなことを言われて、顔から火が出そうだった…。

「…」
「スーツ着てるけど…仕事なの?」
かっちゃんが、いう。

「いえ…就活で…スーツ着てるだけで…求職中なんです」
「そう…自殺しようって感じではないってことでいいのかい?」
「ええ、悩んではいますが…死ぬ勇気もありませんし…ただ、明るい気持ちにはなれませんが…」

マスターが話しかけてきた。
「食事はしたの?」
「ああ、甘酒を飲みました」
「甘酒じゃごはんにゃならんでしょうが…
失礼だけど…お金に余裕がないのかもしれないけど、
よかったら、うちでランチ食べていったら?」
「そうだよ。マスターのランチ、おいしんだよ」

「あの、おいくらくらいなんですか? ランチって」
「1000円って、厳しいかい?」
「いえ、それくらいはだいじょうぶです」
「じゃあさ、オレンジジュースとランチで1000円税込みでどう?」
「いいんですか? オレンジジュースすでに500円ですよね?」

マスターは人のいい笑顔をみせて、こういった。
「1000円で、ドリンクもランチも好きなだけ食べていってよ。
幸い、もうランチタイム終わりだし…ランチのお客はいないからさ。その代わり、今日のランチは売り切れてるから、いまある材料で適当につくるってことで許してくれるかい?」
「いいんですか? じゃあ、今日だけお言葉に甘えます。次もまたきたいから…仕事が決まったらまた来ますんで…次回は普通に払います」

「はははは。仕事が決まっても決まらなくっても来てよ。ツケでもいいから、またWhoの話でもしにおいでなさいよ」
涙が出そうだった。
こんな温かい心遣いは久しぶりに感じた。

ランチタイムは午後2時まで…確かに、もう午後3時近い…
おなかが減っていた…しかし、お任せで…何をつくってくれるのか…
なんだか楽しみになってきた。

「かっちゃん、お客さんにドンシモン、もう一杯出してあげて…」

え? かっちゃんが慣れた感じでカウンターの中に入って、
私にジュースをついで出してくれた。

「いいんですかね? …これ1杯500円だから…もう1000円いっちゃってますけど…」
「気にしない…マスターは最近娘さんが社長になってくれたから…喫茶店を始めたんだけど…会社も喫茶店も儲かってるからだいじょうぶさ」
「会社って?」
「マスターはコーヒーや紅茶やこのドンシモンなんかの輸入品を扱う会社をやっていてさ、卸売とかやってるんだけど…成功したんだよ。センスいいだろ? アサヒくんは…バンド時代からおんなじさ。マニアックでセンスいい輸入品を都内の喫茶店や料理店に卸してるわけよ」
「へえ。店もよくみるとセンスいいですね」

これみよがしにロック的なテイストを強調はしていないが、キンクスのポスターやWhoやサンダークラップニューマンのアルバムジャケットなんかをさりげなく飾っていたり、ユニオンジャックをあしらったオブジェなどがうまく配置されている。西洋絵画なども品よく飾られていて…居心地がとてもいい空間が創造されていた。さすがというしかなかった。

「はい、お待たせしました。好きなだけ食べてね…料理の専門家じゃないから、あんまり期待しないで…でも、食材はいいよ。飲み物は、ジュースがいい、それともコーヒーや紅茶がいい?」
「あ、じゃあ、フォートナム&メイスンのブレックファーストをもらっていいですか?」
「いいよ。なかなか、いいセンスだね。ドンシモン知ってるし…もてなしがいがあるよ」


目の前には…意外な食べ物が置かれていた。
カレー皿に大盛りのごはんのタコライスのようだった…。

白いご飯の上に、レタスやトマトだけでなく、いろいろな生野菜が細かく切られて、きれいに盛り付けてある。

生ハムに薄切りのチーズらしきものが見えている。
豪華だった…サラダの野菜類だけで、10種類くらい使われているようだ。

フォークとスプーンと割りばしが添えられている。
割りばしにした。
中に何が入っているか確認するには割りばしが便利だ。

何をかけて食べたらいいのだろうか?
テーブルには醤油、酢、オリーブオイル、ごま油、岩塩、あらびき胡椒などが置かれている。

「あの…この料理には味がついていますか?」
「お好みでいろいろ足してもらえばいいよ。サラダには軽く塩コショウしてあるけどね」

「いただきます」
やはり、まぜないことには、味がわからないのでサラダ部分と具とライス部分を少しまぜた。割りばしをいったん置いて…スプーンでひとかたまりの味見をした。

う! うまい!
なんだこりゃ?
あまりのうまさに、きどった体裁は吹き飛んで、スプーンでかき混ぜながら、マルシマの醤油と九鬼のゴマの油、ウユニ塩湖の塩、ガルシア社のオリーブオイル、ブラックペッパーを少しずつかけてみた。

うまさが破壊力を増した…
言葉が出ない…しかし、手が止まらない…

ルッコラ、セージ、イタリアンパセリ、スウィートバジル、青じそ…ロメインレタスのほかに、さまざまなハーブがあり、トマトも信じられないくらい甘い!

しかし、このうまさのおおもとは…それらの下に埋もれていた、パルマ産の長期熟成のプロシュートに強いうまみをもつチーズの薄切りだった。
そして、ひき肉と思っていたものは…意外なことに、
ちりめん山椒であった!

ちりめん山椒にはすでにゴマの油がついていて…軽く醤油がついていた。
そのうまさは、台地状に盛られた少し冷めた温かいご飯によくなじみ、
上にのるハーブ類とよく合っていた。
そして、チーズ。

よく見ると、薄く切られたチーズ片はすでにぬくい白飯の熱で程よく溶けていた。

臭いも強いが…これはどこかで食べたことがある…
イディアサバル? マンチェゴ? この栗のような香りはマンチェゴに近く…舌にしみるような酸味の強いうまみはイディアサバルのようだ。確か羊のチーズだったか? 硬さは近いがたぶんチェダーチーズではないだろう。
明らかに羊のチーズのようだった。

この臭いのチーズとプロシュートのうまみが抜群に合った。
ゆっくり食べることは不可能だった。
時々、オリーブオイルを足し、ゴマの油を足し、マルシマ醤油を足して食べた。

ものの5分で完食した…

「いやあ、お見事! 思った通りの食べっぷりだったね(笑)」
マスターは目を細めて喜んでいるようだった。
「お代わりもってこようか?」
「あ、マスター、すごくおいしかったです。
食材…とんでもなく良質で…高いものでしょう?
お代わりするのは申し訳ないですよ」
「そう? わかる? このチーズはさすがに知らないでしょ?」
「あてずっぽうですけど…もしかしたら、イディアサバルかマンチェゴみたいな味と香りでした…プロシュートはパルマ産の少なくとも1年半以上熟成したものではないかと…こんなうまみが強いのはもしかしたら2年以上熟成かも…それに、ちりめん山椒も油も醤油も塩も胡椒も…一流品としか思えないものでした」

マスターは少し驚いた表情をした。
「まさか、このチーズ当てる人がいるとはね…まあ、いまはどっちも輸入量が増えたから、誰も知らないとは思わないけど…プロシュートもほぼ正解だよ。ちりめん山椒も知ってるんだね…マルシマも九鬼も知ってるの?」
「ええ、マルシマは、お金があるころは取り寄せてました…」

「お代わりしてきなよ…」
「いえ、こんなにおなかも心も満たされたのは久しぶりですんで…
この辺にしておきます」
「そうかい。じゃあ、紅茶入れよう。ブレックファストブレンドはアッサム紅茶だね…おいしい紅茶だよね」


楽しいひと時が過ぎて、1000円をマスターに払って店を出た。
また来られることを願わずにはいられなかった。

清川のアパートへは結局歩いて帰った。
道すがら…マスターに食事の後に言われた言葉を思い返していた。


「お客さん…名前はなんての?」
「コグレユキオです」
「じゃあ、ユキオくんって呼んでいい?」
「ええ、うれしいです」

「ユキオくんは幸せ?」
「いいえ、幸せじゃあありません」
「そうか…かっちゃんも、ユキオくんがまるで今にも自殺しそうな表情だって心配してたけどさ…表情に出てるってのはよっぽどのことなんだろうね」
「…」
「おせっかいかもしれないけどね…今日、あなたと初めて会って…印象に残ったことがあるのよ」
「なんでしょうか?」
「いまは幸せじゃない気持ちが支配してるとは思うけどね…あなたがドンシモンのマンダリン飲んだ時、ボクのつくったタコライスを食べたときにね…あなたはすごく生き生きして、幸せそうな顔を〈一瞬であっても〉ボクたちにみせてくれたのね。わかる?」
「はい」

「あなたは、食べ物や飲み物、たぶん音楽もそうだと思うけど…
それを口にしたり、耳にしたりして感激してその中に…その世界に入り込んで感動したときにね…あなたは幸せになっていることは真実だと思うんだよね」
「ええ」
「だからさ、食べ物や飲み物や好きな音楽やあなたが好きなものは…あなたを勝手に幸せにしてくれるんだと思う」


「幸せじゃないって自分が思ったら…幸せのヒントは〈勝手に幸せになってしまう何か〉にあるって…そう思って探ってみたらどうかなって…そう思うんだよね。幸せも不幸せも…自分で決めているんだよ。だから、幸せも自分で決めてみたらどうかって…なんか…おせっかいだけどね」


なんだか、ぐっときた。
涙がでそうになった。

いや、結局…
泣いた…。


アパートに帰る途中、待乳山聖天に立ち寄った。
もうしまっていたが…ゆっくりと隅田川の方をみやって…
一周して階段を下りた。

まるで洗脳に近い…不幸への逆戻りを…
解除してみよう。


自分でそう決めよう…
今日から、そうしてみよう。
だめでも、何度でも何度でも、
そう決めよう。


聖観音像があるであろう、本殿を見上げながら…
そんなことを思った。