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三人の魔術師:番外編 モノベさんの日常10「~〈「○○○○○はすっこんでろ」それを言っちゃあおしまいよね。日々の校正日記〉①~」

また例の会社の仕事がきた。そこそこ著名なメーカーの冊子校正だ。
そこまで難しい仕事ではないのだが…頭を抱えてしまうのが表記統一だ。
いつのころからこんなにおかしなルールができてしまったんだろう。

いまやクライアントが内容だけでなく表記統一まで指示してくる。お金を出しているというのは内容に対して口を出す権限があるというのはまあいいとして…物をつくるプロであるなら、口を出すべきではないプロの領域を敬意をもって任せてもいいと思うのだが…。

他社や他の団体の中にはまだ辞書を引くなり、一般表記がわかる者もいないではないが…この会社の窓口担当者はまるでいっぱしのプロ編集者きどりだ。

かといって記者ハンドブックを見るわけでもない、辞典をあたるわけでもない、文化庁の資料があることも恐らく知らないような方だ。まるで支配者のごとく、編集、印刷物のプロである編集者、印刷所の担当者に上から感情丸出しのダメ出しに理不尽な要求をしてくる。

仮に仕上げさせた段階から全く違うレイアウトに変える指示をなんの躊躇もなく伝えてくる。デザイナーがどれほどの高い技術を駆使して、過密スケジュールを縫って仕上げていることなど当然だと思っているとしか思えない。色使いがどうのと言ってくるが…仕上がってからこうしろというレベルだ。プロであるなら初めのイメージとは違うから初めの指定に近づけてほしいと伝えてくる。

しかし、頼んだの良くなかったから変えといてという恥を知らない指示をプロであるデザイナー、編集者がいかに困惑し疲弊するかを「お金を出しているから」という理由で当然だと考えてるというのは、いったいこの国はいつからこんな民度が低い厚顔無恥な社会になったのかと不思議な思いがする。

お金を出しているという立場から「その人間の主観的な、言ってみれば好みの表記統一をこねくりまわして摩訶不思議な芸術的な表記のしきたり」をつくっていることをたぶんわかっていない。


例えば「良い」という統一表記の決まりに従って「良く分からないがバランス良く心地良くやっても良い」がごとく揃えろと指示が来る。放置すると校正が甘いなどと言ってくる。

日本語の揺れは揺らす新しい日本語の使い手の皆様によって加速して揺れ幅は最大になりもうもとには戻ることはないということかもしれない。

「言う」と書いてあれば「世間で言われる言わゆる言わばしきたりと言うルールと言える」…。辞書を引け。できることなら直接大きな声で言ってやりたい。辞書をひいてがんばれってさ。常用漢字なのに俗字を平気で使い、常用漢字外でも書けもしないくせに変換できれば好みで使う。

常用漢字が2010年に新たに追加されたことにも興味がない…誰が読むのか考えてる?読者層の識字状態を考慮もせず、好きなように使う。

読める読めないはクライアントが決めるわけ?そういうのは、世界じゃただのフィーリングってよぶんだぜ~!!って大きな声で言ってやりたい。

でも言わない。言っても無駄だし、逆ギレはたくさん経験してきた。いまはメモにして要点だけ伝え、出典ページを書き添えて終わり。気づくのを待つのみ。気づくことがないわけでもなかった。

10年かかってよくなったケースもあった。

かつてエンケンさんは「○○○○○はすっこんでろ」って歌った。
そういう気持ちは湧いてくるが、やはり、それを言っちゃあおしまいよね。


地道に耐えながら誤魔化しながら、チャンスを窺って校正者が善意で積み上げた知識を伝える。

伝わらなきゃ、今回はあきらめてまたあきらめないで次の機会を待って伝える。繰り返し。

武部先生の本知ってる?
共同通信社記者ハンドブックってみたことある?
広辞苑って知ってる?
日本国語大辞典は?
自動詞と他動詞って知ってる?

資料当たらないで校正するってさ、それ世界じゃなんていうか知ってる?

それはあなた、校正の世界じゃ「ただフィーリング読んでるだけ校正」っていうんだぜ!


「モノベさん?」
「あっ、はい。なんでしょうか?」
「この間の校正で抜けがあったんだよね。聞いた?」
「…どんなミスでしょう?」
「会社名正式名称が違ってたよ」

校正控えを調べてみた。マーカーチェックがない。

「チェックがないんで、抜けてました。抜けた箇所が間違っていたようで…すいません~!」
「ぷ。モノベさん、鉄人ガンマみたいな顔だね。モノベさんってそんなひょうきんな人だっけ?」
「鉄人ガンマご存じですか?」
「うん。ボクはモーニング、スピリッツは毎回買ってたからね」
「愛読書でした。鉄人ガンマは…」
「モノベさんってイメージ違うね…話すと面白いや。今度食事でもどう?」

校閲部の部長の上町さんだ。断る理由はなかった。

「ぜひ」
「ミスの件はあんまり気にしないで。先方が心配してたよ」
「なにをですか?」
「モノベさんはめちゃくちゃ信頼があるようで、先方は。ミスしたことない人どころか毎回ファインプレー続出らしいし、スケジュールが厳しかったんじゃないかって、気遣ってくれてたのよ」
「そうですか、固有名詞は今後特に注意しますって、伝えていただけますか?お詫び伝えてください」
「社内報の方だったから、問題は大きくならなかったから…モノベさん、仕事抱えすぎてないかなって、主任から報告あったから、心配になっただけだから」
「すいませんでした」
「先方は、モノベさんが共同通信社記者ハンドブックのページを書いてくるから、部署で購入して勉強してるんだってさ。だいたいさ、うちの部に個人名指定で依頼してくるのってモノベさんが初めてだから」

励まされた。エンケンさんの歌のように言わなくてよかった。校正者が忍耐を軽んじたらおしまいだ。

「モノベさん、ここだけの話だけど…新年度から正社員になってほしいんだけど、受けてくれます?」
「えっ?ほんとですか?」
「うん、講師を頼むことにもなりそう。若手や講座でね」
「うれしいです」


光がさしてくる。そんな感覚だった。