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創作活動で悩みすぎる人は、たまに笹舟を作って川に流してみると良いかもしれないという話。

 私の主な(ネット上での)活動は、ボーカロイドやUTAUといった合成音声ソフトを用いた楽曲や、ヒップホップのトラックを作り、公開する事でした。しかし、ご承知の通り…か否かは分かりませんが、私は数年前のようなペースで楽曲を作成・公開できていません。決定的な理由が存在するというよりかは、複雑な現象が絡まったうえでそうなっており、私の拙い文章力では、それらの全てを的確かつ明瞭に説明する事は難しいかもしれません。しかし、そのような状況が一年以上続いているにも関わらず、最近は深く意識して苦しんだ覚えがありません。

 私には、様々な創作活動を行っている知り合いがおりますが、その人達が、創作物の良さを維持しようとして、あるいは創作で上を目指そうとして、日々苦悩している光景をよく目にします。悩みが限度を超え、休止や引退をした人も多く見てきました。今回は、そんな人達に新たな視点を提供する事ができないか、あるいは自分自身の心情整理ができないかと思い、久しぶりに筆をとろうと思ったしだいです。

 他人の悩み事や、それを引き起こした現象を完璧に把握する事は極めて困難であると思っています。ゆえに直接介入し、あれこれと審判を下すやり方は私の性に合っていません。これから綴る内容は、あくまでも自分自身の一例を示すというだけであって、全ての人に当てはまる訳でも、他人の価値観を否定する目的を持った訳でもないという事を、あらかじめご留意の上でご覧ください。

「笹舟を作って川に流す」という心持ち

 創作活動を始めてから、現在に至るまでの私の心理状態は、「笹舟を作って川に流す」ようなイメージであると言い表せます。

 私は、ボーカロイドを使った楽曲制作の他にも、伝統芸能の活動、VRや3D関連の創作活動を行っています。しかし、基本的には器用貧乏なだけであって、どれかを極めるという事がありません。10代後半か20代前半くらいで、プロ並みにイラストと音楽とPVを作れて、さらにプログラミングも3Dモデリングもゲーム制作も出来る、みたいな人が世の中には普通にいたりします。才能や技術を多分に要求されるシーンはそういう人達にお任せして、今の私は「笹舟を作って川に流す」ような遊びをしていたいと思っているのです。

 ネットという大きな川に、作品という笹舟を作って流す。笹舟がそのまま流れていったり、どこかに引っかかったりする。誰かに指をさされたり、拾われたりするかと思えば、まただれにも見つからず、そのまま流れていったりする。諸行無常というか、偶然性というか、そういったものを楽しんでいるばかりで、意図的に目標を定めたり、計画して特定の場所にたどり着こうとする意識をあまり持っていないのです。そうした思考にたどり着いた理由は、おおよそ以下のようなものです。

 もし、「自分の音楽を多くの人に知ってもらい、ゆくゆくはそれで食べていけるようになりたい」という固定的な到達基準を持った場合、流行りの曲調を分析したり、広報に適した媒体を選んだり、有名なアーティストにPVやサムネイルを作ってもらったりと、販売戦略を常に意識する必要が出てきます。競合するほかの人たちとポストを奪い合ったり、自分よりも到達に近い人や、すでに到達している人に対して嫉妬を覚える事もあるでしょう。達成してからもそうです。誹謗中傷を受けて傷ついても、「多くの人の期待に応えるために」と。体調が優れなくても、「食い扶持を維持するために」と。苦痛に耐えながら作り続けるという事がありえます。すなわち、何らかの固定的な到達基準を設定した場合、それを目指すため、あるいは維持する為の精神的なコストが生じてくるという事です。

 例えば、一つのタネを植えて、成熟した木になるまで育てようと思った場合、ちゃんと発芽するか、虫や獣に食い荒らされないか、栄養不足になっていないか、雨風で倒れないか、育てる方法は間違っていないか、といった具合に、それを原因とした悩みが生じ、ひたすら対峙し続ける事になります。解決する事で達成感や幸福感が多く得られる状態であれば良いですが、常にそうとは限らず、徒労感や嫌悪感が勝るという事がありえます。

 徒労感や嫌悪感が勝ってきても、一度定めた基準を下げればマイナスになってしまうし、今まで積み上げてきたものを手放す事ができない。そうした状態が長期間持続する事で、創作活動における「苦しみ」の多くが生じているのではないかと思うのです。

 もし、パーティーの席でスーツ姿の人に「着崩れてるよ」と言ったら、気にすると思います。なぜならその人は、整った服装をするという、固定的な到達基準を持っているからです。しかし、パーティー会場にもおらず、スーツ姿でもない、家でスウェットを着ている人に「着崩れてるよ」と言った所で「そうだねぇ」以上も以下もありません。すなわち、「売れてない」と言われて思い悩むのは、当たり前ですが、売れ行きを維持したいと思っているからであって、最初から売る気がないものに対して、「売れてない」と言われた所で、悩みなど生じないのです。

 精神的なダメージを回避する手段として、これは非常に効率が良かったです。完全非営利で執着ゼロにすべし!という訳ではありません。「売れなくてもさほど気にならない、何かの拍子に売れたら良かったと思える。」くらいで、少なくとも私の精神衛生は丁度良く保たれています。

創作物の「良さ」には実体がないのではないか

「いやいや、そうは言ってもやはり良いものを生み出し続けてたいんだよ。一度目指したものを、簡単に妥協したり、手放したりはできないよ。」と思う人も多々いらっしゃると思います。では、その「良さ」というのが具体的にどこに存在しているのかについて、私の考えを綴ってみたいと思います。

 創作という概念における「良さ」とは、普遍的基準が存在しないか、極めて曖昧なものであると考えています。

 もし、技術力こそがその要であるとするならば、シンプルなものなどはクオリティが低いという事になりますし、最新の技術や難解な技巧を駆使すればするほど、素晴らしいものという事になってしまいます。また、現代のものの方が技術的に進歩しているのだから、古い時代に作られたものであるほど良くないという事になってしまいます。

 もし、多くの人に評価される事がその要であるとするならば、ニッチな分野のものは良くないという事になりますし、自分の誕生日に友達が作って披露してくれたオリジナルソングなども、評価をする人が限定的であるから良くないという事になってしまいます。

 もし、繊細に、最大限の努力をして作る事こそがその要であるとするならば、「なんとなく投稿した作品がネットでバズった」などという事象が起こった場合、それは良いものではないという事になってしまいます。デート中に恋人が何気なく口ずさんだ鼻歌なども、良くない創作物になるでしょう。

 常日頃、「良いもの」が作れないと思い悩んでいる割には、「良いもの」とは何かと考えても、定義付けて掴もうとしても、矛盾ばかりが生まれ、なかなか実体にたどり着くことができません。どうやら、創作物における「良さ」というのは、工場の検品基準のように明確なものを、まるで持っていないようなのです。自分や周りの人にとっての「良いもの」は、頭の中では存在していように感じているが、実体を探そうとしても見つからない。「この技巧を習得できないから駄目」「〇〇(特定の人物や機関、あるいは大衆)に評価されていないから駄目」「売れていないから駄目」という類の思いや言説は、感情的に思い込んだ、あるいは恣意的に基準を設定した事によって、あたかもそれが核であるかのように錯覚しやすい状態にされているだけであって、本来は流動的で実体がないものなのではないでしょうか。

 良いものを目指そうとすること自体には、何も問題がないと考えています。そもそも創作物自体「こうした方が良いかなぁ」というなにがしかの思いを積み重ねて作っていくものです。ようするに、「良さ」が本来、曖昧かつ流動的・多角的なものであるにも関わらず、それを固定的・均一的なものであると想定し、そこばかりを深く意識しすぎる事で、数多くの悩みが生じてくるのではないか。その捉え方が(総合的に見て)プラスに働くのであれば良いが、マイナスに働くのであれば態々執着する必要もないのではないか、という事です。縛られて具合が悪くるまで考えなくたって良いと思うのです。都合よく放棄できるのならば、それも悪くはないと思うのです。なぜなら、よくよく紐解いていけば、そうした「良さ」そのものの実体は疑わしいのですから。

まとめ

 ある山の頂上に行くことを、固定的な到達基準だとしましょう。頂上に登れたら確かに清々しいですが、別に登らなくても、山には見所がたくさんあります。更に、行ける山はその一つだけではないですし、山が合わないなら海もあり、海も合わないなら丘や街もあります。色々なものの「良さ」が流動的・多角的な形で、極めて膨大、かつ微細なレベルで存在しており、その山の頂上に行くこと一つだけが、あらゆる全ての最適解である訳でも、永久不変の良さでもないことが分かってきます。また、「自分にはあの山の頂上に登ること以外に何も無いんだ!」と思った所で、地球上のありとあらゆる土地を巡ってみなければ、実際にそうであるかを検証する事はできません。

 私などは、器用貧乏な上に集中力もありません。これは短所ともなりえますが、音楽作りに気乗りしなくなったら3Dモデリングをやってみたり、VRワールドを作ってみたり、それも微妙になってきたら一人で絵を描いてみたりという形で、一つの事にことさら執着せずに色々楽しめるというメリットもあります。最近はVRワールドを作る過程で、フィールド音楽的なものを作りたくなってしまい、また楽曲制作のペースが戻って来つつあります。

 これらの思考方法はかなりマイナーだと思いますし、人それぞれ様々な事情を抱えていますから、もし、どうしても切羽詰まってしまった場合に、「こんな考え方をしている奴も世の中にはいるんだよなぁ」と若干思い出すくらいで、丁度良いかなと思います。

長らくお読み頂き、ありがとうございました。

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