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民藝の100年のひとこと感想

今週はすこし趣向を変えて、展覧会の感想をまとめてみる。


正直言うと、ガラス越しにありがたがって民藝品を鑑賞する行為が無意味に思えた。
自分でも驚くほど心に入ってこなかった。

民藝樹にあるように、美術館・流通・出版、その美術館を担っていた日本民藝館に行けばまた違った印象が得られるのだろうか?

民藝樹の概念はとても面白くて、今回1番の収穫だった。


また、美術工芸品と、民藝品の違いがよくわかった。
例えば、伝統工芸展などに出品するような作家や、東博に収蔵されるような漆芸品を鑑賞する時は、
おおっこの技術・意匠・発想etc.すごい…と10分ほど足を止めてしげしげみる品があるものだが、
今回はあまりそういう、
作者の感じた純粋な美しさを固めて作品にしたような、心にガツンとくる芸術品がなかった。
あくまでも、鑑賞用<器として用いること
が目的の作品群だった。展覧会の趣旨からして当たり前だけれど。
これが柳宗悦のいう、「官と民」の違いなのだろう。



とはいえ、実際に家に置きたい使いたいと思うのは、今回の展示の民藝品に軍配が上がる。
民藝品は地に足ついていて、使う人目線で作られているから落ち着く。
純粋な美術工芸品は使う側の目線に立たない、ひとりよがりの表現になりがちである。どうだ!このデザイン、技術、イカしてるだろ!という。

柳も言うように、江戸後期などの漆芸は超絶技巧になりつつありゴテゴテしている(それはそれで好き)が、平安時代の漆芸品などは、初期の素朴な美しさがあるため、個人的には平安時代のものが好きだ。

ホッとするいかした意匠の使える美術工芸品を作りたかったら、そこをディレクションする人がいればいいのだろう。
そういう仕事をしたいと最近考えている。
おこがましいけれど、本阿弥光悦みたいに!


たとえ同じ漆芸品や陶器でも、存在する目的や意義が異なるのだと肌感覚として理解でき勉強になった。
美術工芸と民藝は、同じ工芸の括りにはされるが、まっったくの別ジャンルなのだ。
それぞれの工人同士が互いを認め合わないことがあるのも無理はない。
登る山が違うのだ。
パンジーとチンパンジーくらい別物なのだ。

30分くらいで展示を観て、あとは常設展を鑑賞した。図録を買ったから、キャプション読めるしこれでいいやと思ってしまった。

古物商のお店で働いた方がおそらく、己の感性に合う民藝品が見つかるしそれは手にとれて購入もできる。


しかし今回の展示は民藝運動の概観を知るとても貴重な契機となった。

民藝館にも足を運びたい。


〜おまけエピソード〜

柳宗悦
やなぎ むねよし
である。
長い間、やなぎそうえつ やなぎむねみつ と三つ巴で間違えていたが最近ようやっと正しく言えるようになりました。

以前働いていた古書店で、茶人風の風流な常連のお客様がご来店の折、かの人の本をお探しだった。
無学だった4、5年前の私は、柳宗悦をなんと知らず、
やなぎそうえつ…?の本ですね!今お探ししますので少々お待ちください。 と知ったかぶりをした苦い記憶がある。
あの時のお客さますみませんでした。

その後こりゃいかんと勉強して、柳宗悦は民藝運動というものの代表人の一人だということを知った。
私はウィリアム・モリスのデザインが前々から好きだったため、
彼の行ったアーツ・アンド・クラフツ運動とよく比較される民藝運動には俄然興味が出た。柳宗悦さんはモリスの系譜の人なのかぁ?(無知)と一目置くようになった。

しかしよく調べると、モリスの運動と柳の運動は似て非なるもののようだ。

調べて後ほど加筆します。


あとは、常設展で、山口正城さんという、デザイナーや教師として活躍した1900年代前半の方の作品が展示してあった。ガツンと心にきた。
硬質で一見無機的な作品なのに、根底にあるその本質はむちゃくちゃ有機的でごちゃごちゃしたなんだかわからないものがあるなという感覚がものすごく面白かった。自然を限りなく抽象化したような作品だった。
本もいくつか書いてらして、買って読んでみようと思う。

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