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日記・空間と時間

 高所恐怖症とは無縁の人生を送ってきた。

 子供の頃、木登りで4mほど落ちて腕を折った後も、ギプスのまますぐにまた登っていた。おだてられなくても木に登る、高いところが好きなバカだった。だがもし雪国で育っておだてられたとしても、とてもじゃないがこれはできないな、とジャンプ台を見上げて思った。

 そよ風が気持ちのいい秋晴れの午後、15時から練習があるというのを聞き、見物に来ていた。ジャンプ台をぐるりと囲む広々とした芝生には、ボール遊びをする幼な子を連れた家族や犬の散歩に来た老夫婦など、そこがジャンプ台なのとは関係なく穏やかに過ごす人々がいた。

 2つあるジャンプ台の小ぶりな方、とはいっても高さ100mはありそうな、ノーマルヒルで練習は行われていた。選手が次々と飛んでいくが、素人なのでジャンプ自体の良し悪しはよく分からない。
 ただ、彼らの姿は凛として美しかった。空手の形や茶道に似ているようにも思えた。幽玄とでも言うべきか、無駄のない洗練された動きには素人でも惹きつけられた。

 ぼんやり眺めていると気付けば数十分が経っていた。面白いだけでなく、不思議と心地いい。その理由は音にあった。ジャンプ台を滑走し踏み切るまでの音、飛んでいる間の一瞬の静寂、人工芝に着地し止まるまでの音。観客のたくさんいる大会やテレビ越しではなかなか味わえないものだ。

 その音を際立たせている肝は、飛んでいる間の静寂だと思う。息を飲むような静けさは、時が止まったようにすら思えた。選手本人はMAX100km/h以上というとんでもない速さで飛んでいるのに、その姿は不思議とスローモーションのように見えた。相対性理論とはこういうことかもな、なんて思う。

 近年、物理学と時間の関係で話題を集めた本がある。物理学者カルロ・ロヴェッリ氏の「時間は存在しない(時間の順序)」だ。同著によれば、過去と現在と未来は区別できないものらしい。理屈としてエントロピーだマクスウェルの悪魔だなんだと書かれていたのは正直さっぱりだったが、要は時間は過ぎ去っていくものではなく、場所のように別のところにあるもの、という説だそうだ。「大豆田とわこ」で小鳥遊さんが語った
「5歳のあなた(とわこ)と5歳の彼女(かごめ)は今も手を繋いでいて、今からだっていつからだって気持ちを伝えることができる。」
はその理論に基づくものだ。
 そしてまたその理論に従えば、1998年2月の原田は、今もこのジャンプ台で「船木ぃ〜」と祈り、そして泣きじゃくっているのかもしれない。そう思ったら、同じ空間の全然違う時間で起きた出来事をすぐ近くに感じて、前より少し愛おしくなった。

 あの時の原田や船木たちが少しでも先へと願ったジャンプが、次世代の若者たちが白馬の空を飛んでいるこの未来に繋がった。そしていまの私がそれを見ている。人の想いの重なりを、時間が繋いでくれている。時空ってなんだろう。自分がいまここにいる事も、なにかに繋がっていくのだろうか。なんとなく自分も「船木ぃ〜」と呟いてみた。言葉がそこに留まることを良しとしなかったかのように、秋風が吹き抜けていった。

 その冷たさに驚いて辺りを見回すと、気付けば白馬の山々は夕日に赤く染まっていた。この日の自分は白馬に置いて、行かなければ。席を立ち、階段を駆け降りた。迫るバスの時間に間に合うように。

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