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日記・東京から離れた東京で

 34km地点、頭の中は食べ物でいっぱいだった。
とにかく何かを口にしたいという欲望に支配されていた。

 初めてのフルマラソン超え、それなりに準備してきたつもりだった。しかし、700mもの高低差や倒木を跨いだりくぐったりする林道などの、単に"マラソン"とひとくちに表現するにはバラエティ豊か過ぎるコースで想像以上に消耗し、持ってきた携行食などとうの昔に食べきっていた。

 つまるところ自分の準備不足なのだが、血糖値の低下よって、いわゆるシャリバテに陥ってしまった。どうにも身体に力が入らなくなってきている。なにか沿道に食料は売ってはいないか。しかしそこはただ山を切り拓き道路を一本通しただけの場所で、次の集落まで5kmはあった。どうやっても40分は走らなければいけない。そんなのもう無理だった。というか、もう走れずに歩いていた。ここが都会なら10分と歩かずコンビニがあるのに。だがこの島にコンビニは一軒もない。せめて自販機でコーラでも飲ませてくれ!と祈りにも似た白昼夢のようなものに囚われていた。

 なんでわざわざ自ら走ってるのか、と何度も後悔した。だが、その度に走る理由がある事を突きつけられる。そこまでしないと、普段の傲慢さを反省できない愚かさが自分にはある。
 上出遼平氏がコラムで「定期的に自分を下げ切る行為をしないと、普段の喜びを感じられなくなる。都会的生活での繋がりへの渇望を再確認する為に旅に出る。」との旨を語っていたことが強烈に脳内で反芻される。

 自分は普段、恐らく食に無頓着な方で、ひとりなら晩ごはんはコーンフレークと水で特に不満がない。しかしそれはいつでも他の選択肢にアクセスできるという心理的余裕があるからで、それしか選べない状況ならば大いにストレスだろう。辺見庸氏「もの食う人びと」の冒頭で描写されていた、富裕層の食べ残しを卸売りで買って食べているバングラディシュの貧困層は、他に選択肢がないからそれを食べていた。その人々より、てめえの何が偉くて食へのアクセシビリティに恵まれているのか。義憤とも諦観ともつかぬ、まだ自分が形容に適した言葉を知らない感情に締め付けられる。

 そんなことをゾンビのようにヨタヨタと歩を前に進めながら考えていたら、道に突如として現れた東屋に、おばちゃんが立っていた。大会の主催者側が用意してくれた補給場である。手づくり感溢れる大会ゆえ、参加者が到着するたびにおばちゃんがしずしずとスポーツドリンクをコップに注いで労ってくれた。そして、食べるかい、とおにぎりを差し出してくれた時はもう泣きそうなほど嬉しかった。一も二もなくかぶりついた。シャケの強い塩味によって際立つ米の甘みのうまかったこと!心身に染み渡った。普段、こんなに噛み締めておにぎりを貪り食うことがあるだろうか。

 時々だが自分の中の食欲を、性欲と共に、卑しいなと生理的な嫌悪感を抱くことがある。
 「BEASTARS」のレゴシが中盤で抱えていた感情に近いと思っていた時もあるが、それよりも、それらの持つ複雑性を理解し切れなくて投げ出し、自らから遠ざけたいという感覚だと言う方がより近い。しかし、あくまで我々は動物であり、もの食う存在であることから逃れられない。ならば、その食をいかに豊かにするのか、どうすれば豊かだと感じられるのかに視線を向けた方がいいのだろう。だが、そういう環世界で生きていくしかないという覚悟が足らない。
 ここでヒントにしたいのは、「サマーウォーズ」の栄おばあちゃんの「いちばんいけないのは、お腹が空いていることと、ひとりでいること。」という考えだ。それは「INTO THE WILD」の「Happiness is only real when shared.」という台詞にも繋がる。適切に、そして丁寧に自らのマズローのピラミッドを満たし構築してあげなければ、余白は生まれない。食の喜びをありのままに感じ、それを好きな人たちと分かち合い豊かな時間を重ねていけたならば、と一握りのおにぎりを手に、痛いほど思った。

 美味しいとは、幸せとは何か。自分にとっての正体は、変化していくだろうし、一生掴めないかもしれない。だが少しでも理解しようとにじり寄っていくことは、やめたくない。その数ミリの前進の為に、今日は50kmを走るのだ。そう決意して立ち上がり、おにぎりを熱源として、再び走り始めた。

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