精神的に参っているときは「他責思考」が良い

「自責思考」するべき時とは

「自責思考の人は成長する」とよく言われます。自責思考の人は、
「問題が発生した際、他者や環境のせいにするのではなく、自分事としてとらえ、自分の中に改善点を見出して修正していく」
ことが出来るからです。

「自責思考が大事!」という意見の含意は、
「問題の原因が1割程度しか自分にないとしても、自分に責任があると考えて精進せよ」
みたいな感じだと思います。
他にも、「成功の中に失敗を見つける」という言葉も似た意味で使われていると思います。

このように、
「一見すると自分はそんなに悪くないとき」
というのが、
「自責思考するべき時」
であると考えて良いと思います。


※当然、原因が誰に何割あるか、というのは客観的にはわかりませんが、「一見すると自分は悪くないけれど〜」みたいなニュアンスを伝えたくて説明に用いました。

「他責思考」するべき時はいつ?

では、「他責思考」の場合はどうでしょうか。
単純に「自責思考するべき時」の裏返しで考えると、
「問題の原因が9割自分にあり、他者や環境には1割程度しか責任がないとき」
ということになります。

直観的にこれはおかしいとわかります。これではただのクレーマーになってしまいます。

「他責思考」について調べたら、こんな説明がありました。

 ミスをしてしまった。自分が確認しなかったのも悪かった。でも、そもそもこの入力フォーマット、おかしくないですか? この配列、どう考えてもわかりづらいでしょ? 説明文もわかりにくいし。小数点の扱いも入力項目ごとに異なるなんてややこしすぎる。だったら小数点以下は自動で切り捨てされるよう設定しておくべきです。

「いままで誰もおかしいと思わなかったのですか? これは、僕でなくてもミスしますって。フォーマット、変えましょうよ」

 ……言い方はさておき、仕組みのムダや改善点を指摘できています。他責にする=環境要因や仕組み、仕事のプロセスの問題点を指摘すること。

優秀なプレイヤーは自責で考えるが、優秀なリーダーは『他責』で考える」
https://diamond.jp/articles/-/132777

確かにその通りなのですが、これは私のイメージしていた「他責思考」と異なります。私の思う「他責思考」は、
「◯◯が悪い。ちゃんとしてよ」
みたいな感じで、自分は何もしません。
一方、引用した「他責思考」は、
「フォーマットわかりにくい。変えた方がいいですよ」
と、他者や環境の改善点を探しています。

私の想定していた「他責思考」に比べて、引用した「他責思考」は何だかビジネスライクな感じがします。
私が想定していた「他責思考」が一般的だ!と言いたい訳ではありませんが、少なくとも、「自責思考が大事!」という意見の背景にある「他責思考」と、引用した「他責思考」は異なるものであるはずです。

説明のために、私の想定していた「他責思考」を「悪い他責思考」、引用した「他責思考」を「良い他責思考」と呼ぶことにします。

「誰が悪いか」の段階で思考が止まっている

「悪い他責思考」と「良い他責思考」の違いは、「改善点を探す姿勢の有無」です。
「悪い他責思考」の場合、「誰が悪いか」の段階で思考が止まっています。
他方、「良い他責思考」では、責任の所在は自分以外にあると考えた上で、その改善点を見つけて修正しようとしています。

これらの違いについて、具体的な例を挙げて深掘ることにします。

いま、あなたは電車に乗って通勤している最中です。ところが、電車は急停車。「◯◯駅で人身事故のため、運転を見合わせております...」という車内アナウンスが流れました。

「悪い他責思考」の場合: 

「また人身事故で遅延かよ。電車ちゃんとしろ!」
「良い他責思考」の場合: 

「また人身事故か。全ての駅にホームドアがある訳じゃないもんな。設置推進運動に自分も参加してもいいな。

駅で起こる人身事故って、故意と過失のどちらが多いんだろう。故意の場合は飛び降りってことか...。
根本から解決するには悩みを抱える人々のメンタルケアが必要になるし、みんなの心が豊かになる社会の実現を目指すべきだな。

故意にせよ過失にせよ、ホームドアがあれば駅での人身事故はほとんど無くなるだろうな。

線路上で起きる人身事故の場合は...」

「良い他責思考」って、本当に「他責思考」なんでしょうか?

確かに、「良い他責思考」も「他責思考」の一つではあるのですが、どちらかというと「自分事化」や「考える癖」といった表現の方が的を射ている気もします。
少なくとも、「自責思考」という言葉と対比関係にあるのは「悪い他責思考」であり、「良い他責思考」ではないと思います。

「悪い自責思考」もあるのか

「悪い他責思考」と「良い自責思考」の違いは、
「誰が悪いか、という段階で止まらず、改善点を探しているかどうか」
でした。
これを自責思考に当てはめてみます。

「良い自責思考」
・いわゆる「自責思考」。自分にも責任の一端があると考え、改善点を探して修正していく。

「悪い自責思考」
・自分が悪いと思い、自分を責める段階で止まってしまう。
・改善点を探そうとしない。
・まさしく「自責の念に駆られる」状態。

つまり、社会一般で推奨される「自責思考」及び「他責思考」は、「良い自責思考」と「良い他責思考」なのであり、本質的に大事なのは「思考を止めずに改善点を見つける姿勢」であると言えます。

「自責思考」も「他責思考」も「考える」ためのサポートツール

結局のところ、「自責思考が大事!」や「他責思考も必要」といった言論の本質は、
「よく考える癖をつけようね」
ということなんだと思います。

企業も社会も「思考力のある」人材を必要としています。私だって、何も考えていない人よりも、ちゃんと考えている人と関わりたいと思います。
「自責思考」や「他責思考」という言葉が広まっているのは、「みんなもっとちゃんと考えような!」みたいな風潮が根底にあるからではないでしょうか。

確かに、「自責思考」や「他責思考」は「考える」ためのサポートツールの役割を果たします。
「自責か他責か」という考えを知っているだけで、「自分の改善点は..」「会社のここが悪いな...」という風に広い視野で物事を考えられるようになります。

しかし、功罪相半ば。「なるほど!自責思考が大事なのか!」と思い、なんでもかんでも「自分にも責任の一端がある」と考えることで現れるデメリットも存在します。何より自分がそうでした。

「自責」すべきでないときに「自責」するとヤバい。メンタルが。

世の中にはどうにもならないこともあります。どんな事にも「自分ではコントロール出来ない要素」が付き物です。運であったり、他者の評価基準(どんな人を気に入るか等)であったり。

「確かにどうにもならないこともあるけど、自分に改善の余地がある以上、修正していくべきだ」というのがいわゆる「自責思考」です。
とはいえ、「どうにもならない要素」があるのも事実なのです。自分の手の届く範囲で出来る限りのことをしても、上手くいかないときもあります。

そんな時でも「自責思考」を続けると、どうなるでしょうか?
精神的に追い詰められてしまうのではないかと思います。「良い自責思考」のつもりが、悪い自責思考」に陥ってしまったら目も当てられません。少なくとも、私はこれで辛酸を舐めた経験があります(詳しくは割愛しますが)。

こんなときこそ、「他責思考」の出番だと思うのです。

割り切る

精神的に参ってしまっては元も子もありません。自身の成長のための「自責思考」のせいで疲弊して、成長意欲を失う事になるのは避けたいところです。

なので、心の余裕がないときは、「◯◯が悪かったし、しょうがないな」とか「ついてなかったな」と割り切ってしまって良いと思います。
時には割り切る弱さを受け入れることも必要だということです。

そもそも: 我々は意識せずとも「自責思考」と「他責思考」を複合的に使っている

これまで、「自責思考」と「他責思考」を二元的な思考方法として扱ってきました。
確かに、「自責」と「他責」は二元的な概念ですが、我々が「自責思考」と「他責思考」を排反事象のように使い分けているかというと、当然そうではありません。

まず、「自責思考」と「他責思考」をどちらも使う場合です。というか、誰もがそうしているのではないでしょうか。
「100%自分(相手)が悪い」と思うことの方が少ないと思います。人間そんなに馬鹿じゃないです。

「あいつも悪いけど、俺も悪かったな」とか、「元の原因は俺だけど、君にも非があるだろう」みたいなのはよくある事だと思います。

結局、「自責と他責のどちらに傾いているか」が「自責思考」と「他責思考」の分かれ目なのかもしれません。

或いは、「自責思考」と「他責思考」のどちらでもない場合もあるかもしれません。「無責思考」とでも言えばいいのでしょうか。

「無責思考」は、そもそも「責任の所在」なんてことを考えない思考方法のことだと思います。
当然、「責任の所在」を考えないので、誰かを責めることもなければ、改善点を見つけることも出来ません。

「何か問題が発生しても、その原因や改善点などを考えず、ひたすら次に何をするか考える」
こんな感じかな、と思います。まるで子どもですね。大人には難しいかもしれません。

「無責思考」は何かクリエイティブなことをするときに役に立つ思考方法かもしれません。そのうち「無責思考を獲得するために童心に帰るプログラム」なんかが人気になるなんてことも...笑

研修等で「自責思考」や「他責思考」を勧めるとき

結局のところ、「自責思考」や「他責思考」の目的は、「思考を止めず、改善点を見つけていくこと」だと言って良いでしょう。

であれば、「自責思考」や「他責思考」を勧める際は、その旨も合わせて伝えると良いと思います。
「自責思考が良い」とか、「他責思考も時には大切」というよりは、どちらも「物事を考える際の一手段」であると弁えておくことが、本来の目的を達成する上で重要なのではないでしょうか。

おわりに

「自責思考」や「他責思考」は、問題解決や思考力の向上に役立ちます。しかし、これまで見てきたように、万能というわけではありません。「自責思考」は自身の成長に役立つ一方で、行き過ぎると精神的疲弊を招きます。

100%正しいなんてことはありません。「論理的に考えて尤もらしい」というだけです。時代によって正義が変わるのは、その時代を支配する論理が変わるからです。

※ただし、論理云々とは別に「絶対にダメ」なこともあります。「人を殺してはいけない」が正にそうです。論理次第では殺人を正当化することも可能になってしまうので、「ダメなものはダメ」という判断軸も必要になります。倫理というやつですね。

「自責思考」と「他責思考」に限らず、何事もバランス良く取り入れるのが良いのかなと思います。結局、中庸が大事という月並みな結論になってしまいましたが、もしかしたら「自責か他責か」というテーマ自体が大した問題じゃないのかもしれません。手段は手段であり、それ以上でも以下でも無い、みたいなことを思ってます。

まとめ

・「自責思考」と「他責思考」には良し悪しがある
・そもそも、「自責思考」も「他責思考」も、「物事を深く考える」ための手段である
・過度な「自責思考」に気をつけよう
・疲れたら「他責」でいいよ
・バランスが大事だね

最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。次は「判断遅延」について書こうと思います。

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