見出し画像

喪中につき 1

4歳、世界が突然私に現れた。

それは、家族連れで賑わう動物公園。保育園の遠足だったのかもしれない。日差しを遮る木陰を探して家族でビニールシートを敷いた。そこから小さい身体で見上げた世界。桜は散って葉桜の枝が頭の上に伸びている。レンゲツツジの茂みすら包み込むようにが大きい。

私には意識がある。周りには世界がある。人が沢山いて、木々や花、色や光がある。動物もいる。けど、この人たちに私と同じように主体的な意識があるかは、絶対に証明できない。だって、その人の意識を私は体験できない!

世界が私に現れた瞬間だった。

================

先日、父が86歳で他界した。

もうすぐ2ヶ月が経とうとしている今日、一つの仕事に区切りを迎えた。すこしほっとしながら、夕方予約していた歯医者へ出掛けた帰り道、東京23区住宅街の中を流れる幅10mに満たないコンクリート護岸の川を自転車で渡ろうとした。

天気予報は雨。かろうじてもった鈍色の空に低い雲が流れる。その隙間から夕方の低い陽が川面をテラテラと照らしている。しっとりした空気。盛りを過ぎた八重桜の重い花房。

世界のリアリティが現れた。

この仕事が佳境に入る時、父の対応のために、お客に進捗を待ってもらった。この案件だけは引き継げる体制がなかった。あの待ちがあった分、最後の巻きが大変だったな、と思いながら、そうか、その案件が片付いたのかと、しみじみと川面を眺めた。

時間が経ったんだな。

でも、まだ喪中だから。

喪中は1年もある。まだまだずっとだ。

先日、叔父から郵便が届いた。父の思い出、という文章だった。自身の父を亡くした時に書いたものだという。慰めの贈り物だと思った。

父の思い出。もちろん私にもある。

けれど、私がずっと考えているのは、これは何なのか、自分の感覚に何が起こっているのか、だ。

あるコミュニティで、三島由紀夫の話になり、その中で「先日無事父がこの世の生を全うしたのですが、」と書いたところ、どれだけ達観しているのかと驚かれた。この出来事を人に伝えようとすると、どうしてもそういう表現になる。心情とは別なんですよ、と伝えたら少しホッとされたようだった。すみません、経験がないもので、とその人は言ってくれた。

一方で経験者は寄り添おうとしてくれるというのもわかった。が、それにしても人は人との別れを語る言葉をあまりもたないらしい。

これはそんな言葉を少し書き留めるものだ。

亡くなって56日目の言葉は、

「喪中があってよかった。しかも長くて、よい。」だ。

初稿 2021年4月13日

修正 2021年6月5日




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?