ワインと小説 ④

あなたのいないこの部屋に、冬が来るのを僕は恐れています。

彼から来た手紙の最後の一行は、こう記されていた。
私たちが別れたのは、ほんの数日前だ。それは長すぎた春に終止符を打つ、というような現実的なものでは決してなかったし、かといって別の恋が生まれたからというような情熱的な理由でもなかった。私はこれまで務めていたデザイン事務所を退社して、本格的に絵の勉強をするためにイタリアへ渡る決心をした。
彼は反対しなかった。それは、彼には彼の仕事があり、イタリアへ行くわけにはいかず、だからと言って「待ってる」というようなことを口に出すこともしなかった。そんな事を言い出せば、私が自由に心行くまで勉強が出来ないだろうということを配慮する、彼の優しさだった。
私達は何度か話し合いの場を持った。私の気持ちの中に、待ってて欲しいという思いが、行くなと言ってほしいという思いが、ほんの少しもなかったと言えば嘘になる。もしも彼がそんなことを言い出したら驚きはしたかもしれないが、イタリア行きをやめるだけの理由にはなったかもしれない。
でも彼は終始、私を応援してくれた。それと同時に愛しているのだとも言ってくれた。その言葉の一つ一つが私たちの間にあった6年という時間を物語っている気もしたし、結局のところ結婚に至らなかった理由であった気もする。


彼と最後に食事をした新宿の小さなレストランで、彼はバローロを注文した。

私達は普段、白ワインが好きで、二人で探してはお互いにワインを紹介し合って飲み、その寸評を楽しみ合うというのが共通の趣味でもあったし、マンネリ化されてしまった二人の恋の唯一の慰めでもあった。
「どうしたの?珍しいじゃない、赤ワインなんて。いつから飲むようになったの?」
私がそう聞くと彼はバツが悪そうに笑って、
「いや、そうじゃないんだよ。ここのワインリストの白ワインはもう全部飲んじゃたんだ、僕ら。それくらい通ったってことさ。で、よく考えてみたら二人で赤ワインなんてあまり飲まないから、最後くらいは珍しい事をしてみるのも悪くないんじゃないかって気がしたんで頼んでみた。」
ワインが運ばれてきて、ソムリエが確認のためにラベルを見せた。
「赤ワインなんて、珍しいですね。いつも白ワインだったかと思うのですが。今日は何かの記念日ですか?」
私達は曖昧に笑った。
「でも、今日のような雨の降る日には赤ワインはいつもの何倍も美味しく感じるものです。ワインというのは湿度や気温、その他の気象条件に非常に左右されやすいものですからね」
そう言ってソムリエは彼のグラスにほんの少しだけワインを注いで、彼はその香りを確かめ、ソムリエに「結構ですね」と言った。すぐに私のグラスにもそのガーネット色の液体が注がれた。真新しい革製品の香りがして、煙草のような香りが鼻腔の奥に当たり、最後にふと薔薇の香りがするような気がした。
日頃、白ワインばかりを飲んでいる私にとって、一度にこれほどの情報量がどっと押し寄せてくる赤ワインは驚きの連続で、直ぐにはその良さ、美味しさが分かりにくかった。
その夜はこれだけを飲んだ。これ一本で随分酔った気もするし、そうではなくて何とか酔ったようなふりをしたかったのかもしれない。
店を出ると新宿駅まで歩き、彼は内回りの電車に、私は外回りの電車に乗り込んだ。別れ際、彼は「さよなら、元気で」と私にいって、私は黙って頷いた。涙が頬をつたっているのが分かった。ドア付近に立って外を見ていたが車窓に映る私は涙でゆがんでいた。のどの奥にまだあの薔薇の匂いがしている気がして切なくなった。電車を降りて改札を出た後で、傘を忘れてきた事に気がついた。彼はいつも私のと自分の、二本の傘を持って歩いてくれた。店を出た後、私に何度も「傘を忘れないように」と念を押していたが結局は忘れてきてしまった。私は傘のないままで夜の街を歩いた。

別れ、というものに理想の形があるとしたら、これじゃないかと雨と涙に濡れながら私は思った。

その冬の初めの事だった。
私は住んでいるトリノから車でドライブに出かけた。イタリアでの生活も半年を過ぎ、ようやくいろんな事に慣れてきていた。そんな時、彼から手紙をもらったのだ。私の中に眠っていたほんの僅かな甘い気持ちに自分で気づいてしまってどうすることも出来ず、夢中で車を飛ばした。久しぶりの運転に心は高揚したし、ピエモンテの山々は美しく吸い込まれていくような清涼感があった。一時間ほど走ったところで車を止めて降り、少し歩くことにした。街も人も、商店や動物たちさえも冬の準備をし始めていた。空気は冷たく突き刺さるようで、独りきりの私には異国での冬はとても厳しいもののように感じた。その時だった。街角に立った私は、どこかから薔薇の香りがするような気がした。慌てて周りを見渡したが、もちろんこの冬の始まりに薔薇が咲いているはずはなく、目に映るのはトラットリアやレストラン、果てはワイナリーばかりだった。そう、この街はバローロの町なのだ。街の中は赤ワインの醸造されている香りにあふれているように私には感じられた。それは彼の手紙のせいだったかもしれないし、孤独を隠してきた私の限界だったせいかもしれない。けれど、私はあの夜飲んだ、あのバローロと同じ香りを街中から感じることが出来た。私はもう一度、彼の手紙を読みたくなって急いで車に戻った。助手席にはうすい茶色の便箋が三枚、二つ折りにされて置いてあった。手紙には、

僕らが暮らしたこの六年であんなにたくさんの白ワインを飲んだのに、僕はどういうわけか最後の日に飲んだあのバローロを忘れることができません。ソムリエのいうように雨の降る夜は赤ワインが美味しいと感じるからなのかもしれないし、赤ワインを飲むこと自体が珍しいからなのかもしれないけど、とにかく、僕はずっとあのバローロを思い出しています。どこか温かで、親しみ深く、それでいて人見知りしてはにかむ、あなたのようなあのバローロを。
そして僕は今、何よりもこう感じています。あなたを引き止めなかった後悔を。待っているよと言えなかったこの臆病さを。
呪うように、いま、冬がやってくるのです。孤独と嘆きの冬が。
元気でいますか?そればかり心配しています。

そしていま。
あなたのいないこの部屋に、冬が来るのを僕は恐れています。

そう書いてあった。のどの奥で、薔薇はむせぶように咲いている。

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