未来じゃなくて「続き」を

生まれる直前と直後にオイルショックがあった。知らなかったし、歴史の教科書で習ったくらいの知識しかない。

バブルが崩壊した。実感がない。知らないと言ってもいい。

阪神淡路大震災があった。1995年で高校生だった。京都は多くの被害があったわけではないが映像にも聞き及んだ多くの話にも愕然とさせられ続けた。無力であることさえ感じなかった。

リーマンショックが起きた。結婚して間もなかったけれど、生活がどうのということも感じなかった。社会への責任感も欠如していたし、自分に何かできることを見つけようとも思わなかった。

東日本大震災が起きた。息子が生まれたばかりで、毎日が恐怖の連続だった。目に見えるものにも、見えないものにも怯えなくてはいけなかった。そのことで、僕の中には「世界との関わり方」を疑う気持ちが芽生えたかもしれない。その後、何度も被災地に訪れた。お芝居をしに行ったり、慰問したり、ただ遊びに行くこともあった。でも何かが「できてる」わけではなかった。

ずっと。

ずうっと。

続いているのだ。変化はあったかもしれないけれど、一度も時は止まってない。命は多く失われ、日本経済は世界でも最低ランクのデフレを維持し、それを数字でごまかし、机上の空論で埋め合わせ、憲法の改正だけを声高に叫び、回収されないお金のために消費税は上がり続けている。

続きの続きばかりだ。本当に必要なものは何だったか見失われたままだ。芸術は平和な時にだけあればいいのか?その問いの応えるのは誰なのか?太平洋戦争が終わって、日本人は何を見てきたのか?都の担当者の方は「東京都は演劇が弱いんでね」といったという。弱いんじゃない、無視されてるんだ。演劇より、ユーチューバーが便利なだけだ。劇場は貸し借りのためだけに存在して、育てることも教育することも、スポンサードも、たにまちも、いい方は何でもいいけど、持つことができず発展もなく、やりたい人がお金さえ払えば「施設」を利用するだけの時代を幾年も重ねてきたからだ。だから無視されてきた。政治に口も出さず、たがいに批判もしあわず、利用する価値さえないとこまで互いに好き勝手してきた結果が、これだ。

寄付は売名行為だという人間がいる。

一生言ってろ。なんなら、そんなこと言うやつは寄付なんかしなくていいし、寄付の恩恵にあずかるのも遠慮すればいい。寄付は、自分自身が存在する業界の社会的地位や、その存在意義や認知度や感謝のためにあるのだ。だから働く業界で多くの利益を得たら、寄付して、その仕事の社会性とその意義を存分に知らしめようとするのは当たり前のことだ。お金持ちなんです、ってアピールじゃないのだ。

戦後の続き、だった時代が終わろうとしているのかもしれない。新しい未来がこの続きに生まれるのかもしれない。その世界に芸術が必要なくなるなんて全く思わない。選ばれた人の選ばれた仕事になるとも思わない。でも、演劇の社会的地位は上げなくてはいけない。自分の生活は大事だけど、少なくとも自分の仕事の社会的認知度は重要だ。それは社会の役に立っているか、誰かの幸福に役立っているか、自殺を思いとどまった原因になっているか、幼い子のなりたい職業になっているか、夢になっているか、そういうことが出来なければただの金稼ぎの職業どまりだ。演劇に至っては金すらろくに稼げないのだ。そこから変わらなくてはいけない、変えなくてはいけない。

僕らの受難の続きに、何かが解決されて、僕らが解決を試みて、世界の続きをよりよいものにしなくては意味がないのだ。未来はよくなってるか?コロナが終わったら世界はどうなるか?じゃなくて、この続きに僕らが精いっぱいできることを準備して実行しなくてはいけないのだ。そうでなければ、家族だって幸せにはならない。子供たちの未来だって不安なままだ。誰かに期待してよくしてもらおうとしてきた結果、こんな最悪最低の内閣を承認して文句ばっかりになるくらいなら、この先は自分たちで作らなけらば嘘だ。

この先だって、受難はあるのだ、おそらく確実に。それを僕らが受けるのか、子供たちなのか、孫たちなのかわからないけど、税金は足りてるか、社会保障はなされてるか、福祉や介護は充実してるか、芸術は生活を成し生活を彩っているかを期待して指をくわえてたんじゃだめなのだ。○○の時代みたいな便利なくくりに惑わされないで、この続きの物語を是が非でも素晴らしいものにしなくては意味がない、生きてる意味が、生まれてきた意味がないのだ。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?