自由

我がハム2が終わった。もちろん沢山の方に感謝している。でも、ここにそんな事を書くつもりはないから思ってる事だけ、書く。「自由」についてだ。特に演じる自由について。演じることについてはいくつかの段階が存在する。特に「人前で金銭の授受が発生している中で演じる」ということについては僕は絶対的にそのラインを守っていたいと思っている。

1.癖を取り除く

2.ただのプレーンな人となる

3.演じるための型を学ぶ

4.自由になる

5.仕事があって生活が出来る

この五段階だ。各項目の所要時間はそれぞれ異なるし、個人差がある。僕は38歳くらいまでおよそ20年を要して3まで来た。いま、ようやく4を感じている。そして、その4「自由になる」がなければコメディはなし得ないと感じているし、この中から更に大きな何かを学ばなくてはいけないし、表現出来なくてはいけないと思っている。で、自由になって来た。凄く激しく自由になって来た。それは最初、ボクシングのリングくらいの広さでしか感じなかったものがここ1年程で東京ドームくらいの広さに変わった。声はどこまで届くか、今なにをするか、左目の端には何が映り右目の端は何を捉えているか、そういうようなことが「思っている事と感じている事と出来ていることが近似値でありながら、スケールは東京ドームになった」と感じている。断っておきたいのだけど「上手になった」わけじゃない。上手にはなれない。どんなに頑張ってもお芝居が上手になる事はほとんどない、期待しても意味がない。成れるとしたら「自由」だ。その自由の中で今回はまた女形を演じた。前回より柔らかく、より女性らしくを意識した上で殊更「おんな」である事を強調する事はしないようにした。自由の賜物だと思う。もちろん、相変わらず「上手」とは無縁だ。ただそこに肉体が存在していて決まった時間の中で物語を引き起こし収束すればいいのだ。上手にやるので無く、必然的に偶然を演じていれば充分だ。演じていて「楽しい」と感じたのは遥か昔で、それは「型」を学んでいるときだったと認識している。つまりは知らない事をインプットしている時期だ。今は違う、今はあり合わせのものに新しい何かを足しながら演じているのだからただただ苦しいのだ。だからこそやり甲斐はある、楽しいからやってるんじゃない。楽しい事をやってるから幸せなのではない。あくまでも求道者だからこの道を行くのだ。自由とはそれをこそ選ぶ事だと思うのだ。今回は何よりその事を痛切に感じた。コメディなんてものは一見、楽しいからやってると思う人は多いと思う。否、楽しいと感じて欲しいのはお客様で僕が楽しいかは問題じゃない。毎回毎回苦しかった。昨日取った笑いを盲信したら終わり、昨日取った笑いを信じることができなくても終わり。それがコメディだ。歳とともに、疲れは1日では取れなくなる、感覚は鈍くなる、その瞬間にこそ自由の扉はうっすらとだけ開かれる。

それが『我が子、ハムレット2』だった

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