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ワインと小説 ③

よく晴れた夏の日だった。いや、晩夏と言った方がいいだろう。

名前も知らない町の外れにあるバス停で真夜中、黄色いバスがくるのを待っていた。満天の星空には白鳥とアルタイルが今にもこちらに飛んできそうなくらいはっきりと見えた。
気がつくとバスは目の前に停車していた。運転手は柔らかなまき毛の初老の男で、鼈甲の縁のメガネをかけていた。ドアの前につっ立ったままの僕を見ると、しゃがれた声でこう聞いた。
「どこまで行くんだい?」
何と答えたものか、しばらく迷ってから、小さな声で答えた。
「月へ。月まで行きたいんだ。」
運転手はゆっくりとこっちを見た。
「月、か。良いだろう。早く乗りなさい。お客は君だけじゃない。」
「でも、一つ心配なことがあるんだ。」
「なんだい?」
「運賃が足りるか分からなくて」
運転手はやれやれといった具合にこっちを見て、ポケットの中のものを出すようにと、優しく言った。
ポケットの中からは金閣寺とエッフェル塔が出てきた。金閣寺の方はポケットの中で、手と、その汗と、ポケットの布地とに磨かれたせいで、心なしかいつもよりぴかぴかに光っているように見えた。
「じゃ、金閣寺をもらっておこう、さ、乗りなさい。出発の時間だ」
バスは走りだした。バス停はあっという間に小さく遠くに追いやられ、代わりにアルタイルは見る見るうちに大きく鮮やかになった。
バスは空を滑るように走った。どんなに時間がたっても「飛んでいる」という気持ちにはならなかった。時々だが、タイヤのまわる音はしたし、エンジンは聞きなれた「自動車」のそれだった。
バスは初め、ローマのコロッセオの上を走り、それから何時間かして自由の女神の上を横切った。
僕はこのままだとバスは月へ行かないんじゃないかと心配で仕方なかった。すると通路をはさんだ隣の椅子に座っている女の子が話しかけてきた。
「月まで行くのね?」
僕はゆっくりと首を縦に振った。
「心配ないわ、もうすぐ着くのよ。今日は土曜日だからいろんな町の上を飛んでいるだけなの。あなたの様に月に行きたくてこのバスを待っている人が世界中にたくさんいるんだもの。」
「君も月へ行くの?」
僕は少女に聞いてみた。少女は首を横に振った。でもそれっきり何も話そうとしなかったし、窓の外の方をしきりに見ていたので僕は質問をするのをあきらめた。
そしてその時は来た。
唐突に、本当に唐突に、少女の目線の先に、月が現れたのだ。
月はもう何万年も前からそこにいるようだった。僕らの知る遥か以前からそこにいて、ずっと同じところを見ているようだった。

僕は突如目の前に現れたその大きな物体に心を奪われた。

月は灰色をしていた。地球から見るような黄色さはどこにもなかった。それでも、どこか詩的で美しく、厳格な感じがした。
やがて、バスは月の上に止まった。
そこにはきちんとバス停とベンチが置いてあり、バス停には「青い地球前」と数字の「6」が記されていた。こんなところに誰がバス停なんか作ったんだろう。僕はバスを降りてまじまじとそれを眺めながら考えた。そしてふと、そのバス停につけられた名前に目をやった。
青い地球前?僕は振り返ってみた。バス停を背にするとそこにはあの青い地球が絵に描いたように浮かんでいた。ちょうどソフトボールくらいの大きさで、手を伸ばせば届くような雰囲気で、そこに浮いていた。地球では今日も、この月に手を伸ばす人がいるのだろうか?僕の頭にはそんなことがよぎった。
「どうだね?月に来た気分は。」
運転手が後ろから話しかけてきた。
「初めてなんだろう、君は。月に来るのが。」
「どうして分かるの?」
僕がそう尋ねると運転手はじっと地球を見て言った。
「二度目以降の人間は大抵、月の裏側ってバス停に行きたがるからさ」
「月の裏側?」
「ああ、そうさ。地球からみえている月は必ず同じ面なんだ。ってことは必ず反対側、つまり裏側がある。でも、ほとんどの人間は初めて月に来る時は青い地球ってバス停で降りる。有名だからなのか、それが心理ってもんなのか、私にはわからんがね。そして二度目以降は月の裏側を目指すもんだ。」
「じゃあ、この6って言うのは?」
「月には7つバス停がある。その6番目さ、ここは。」
「なるほど。」
「月の川、兎の庭、クレーター、月の裏側、最初の足跡、青い地球、永久の夜、これが全てのバス停だよ。」
「誰がその名前を付けたの?」
運転手は僕の質問を聞くとバスに戻りながらこう言った。
「わしには分からんよ。バスの運転手になった時にはもうこの名前が付いていた。だから疑ったこともないし、これが世界の当たり前なんだよ。」

僕は今、自分の立っている地面が本当に月なのか、何度も問いかけないわけにはいかなかった。現実味はないのに現実だと思うしかなかったからだ。けれど、そのたびに左目の端には真っ青な地球が悠然と浮かんでいるのが見えた。ここに浮かんでいるのが本物の地球なら、この星が月だとしても別に不思議ではないのだ。
「さぁ、そろそろ戻るぞ。地球へな。」
「もう?こんなに早く?」
「ああ。どこかの町が朝になれば、どこかの町に夜がくる。それが地球って星の宿命だ。だからそのサイクルが正しい間に戻らないと、戻る場所がなくなってしまうことがある。当たり前のことが、当たり前であるうちに、いろんな事を元に戻さなくてはならないのだよ。」
運転手は念を押すように、僕に「分かるかい?」と聞いた。僕はしっかりと頷いてバスに再び乗り込んだ。
さっきの少女はまだ、窓の外を見ていた。
「どうだった、月は?」
彼女はそっけなく僕にそう尋ねた。
「分からないな。正直に言って、月の事はよく分からない。でも、地球が恋しいよ。僕らはあんなに美しい星に住んでるんだって思った。だから帰るよ、地球へ。僕の帰るべき場所へ。」
少女はにっこりとほほ笑んだ。
気がつくと、僕はさっきのバス停にいた。最初にバスを待っていた、あのバス停だ。雨が激しく降っていて目の前のアスファルトが真っ黒に塗れていた。ふと眼を上げると、ほんの少し離れたあたりに金閣寺が見えた。
晩夏の京都の夜に金閣寺は、その闇をほんのりと浮かばせて張り付くように蒸し返っていた。月の見えない夜なのに、朧に浮かんだ金閣寺はまるで月のようだった。
小さな声で「永久の夜」とつぶやいたが、その声は一層激しさを増した雨音で京都の夜へ消えて行った。


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