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この欲は異常ですか?〜「正欲」感想〜

観てから1週間以上経つのに、うまく感想を言語化できなくて、一度書いた記事を全部白紙して書き直した。それくらい、他人事とは思えない内容で、色々感情が派生して、とっ散らかりそうなので、出来るだけ作品の内容から離れないように努めようと思う。

結論から映画の評価を言うと、生涯ベスト級に入るくらい、自分にとっては特別な作品となったんだけど、原作を読んでない人からすれば分かりづらい部分もあるかもと思ったので、原作を読んで補完することで完成する作品のような気がした。今回の感想も、小説と映画を合わせたようなものになると思う。

朝井リョウのファンなので、原作小説は発売当初に読んだ。毎回なんかしらの衝撃とヒリヒリをくれる朝井リョウの小説だけど、キャッチコピーにもあるように、読む前の自分に戻れないくらいの衝撃を受けた。自分が知った気でいた世界のあり方なんてほんの一部だったのではと思わされるくらい。ちょうど、自分のアイデンティティやセクシャリティーに揺らいでいた時期だったのもあると思う。

作品のメインテーマは、タイトルとも掛かっている性欲について。もっと広く言えば、人とは決して完全に共有、理解しあうことのできない感情についての話だと思う。作品の中で主人公の夏月が言うように、性欲っていうのは誰にとっても恥ずかしいものであって、だけどその性欲のあり方が人とずれていたとき、そもそも人と分かり合える前提がずれてしまうから、人と理解し合うことを諦めてしまうのではないかと思う。

僕はゲイだけど、夏月や佳道のような特殊性癖ではない(と思っている)ので、登場人物たちの気持ちを完全に理解することはできない。けど、異性愛が前提の世界で普段生きていて、こちらも僕がその一員であると疑わず接してきて、自分が異常なのではないかと思わされることは多々ある。

僕は、性欲が強い。たびたびnoteでも性欲について書いているのは、自身の性欲を上手く消化できず、自分でも1番気持ち悪いと感じている部分だから。この映画のレビューで、八重子のパートは必要なかったのではないかという意見を見たが、僕は彼女のパートは必要だったと思う。八重子が大也に拒絶され糾弾されるように、「男性が苦手」ということは社会からは同情され、優しく許容されるコンプレックスだと思う。だけど、彼女自身がそれでも持つ男性(大也)に向けてしまう性欲は歪な部分があって、そういった「特殊な」人だけではなく誰もが持つ自身への気持ち悪さやコンプレックスが描かれているという点で、僕はとても救われた気分になった。

この映画では綺麗事として描かれる、「多様性を認めましょう」という文言。僕自身、この文言には違和感を感じつつも、恩恵を受けている部分もあるのも事実だ。ゲイというマイノリティの中ではむしろ圧倒的マジョリティなセクシャリティーは、多分僕が涙ながらに告白しその生きづらさを語れば、簡単に受け入れられその勇気を賞賛してもらえるのではないか。だけど、僕はゲイであることに常に苦悩している訳ではない。そして、ただ純粋な気持ちで同性を好きと言うピュアな心の持ち主ではない。上辺だけで多様性を認めようと言う人々は、ゲイの醜い性に関する実態を知っても、拒絶せず受け入れてくれるのだろうか。

自分の性欲を気持ち悪いと感じる僕が、自分の中の感情を少しだけど許容できるようになったのは、夏月や佳道のように、同じセクシャリティーの人たちとの繋がりだった。自分が1人じゃないと感じられることが、なんとかこの世界で生きていく術なのだ。認めよう、分かり合おうではなくて、分からないこともあると知ることが真の多様性なのではないかと思った。

結局、作品の内容より自分語りが多くなってしまった。映画の良かったとこでいうと、キャスト陣の好演、特にガッキーについて語りたい。いや、この映画では新垣結衣だった。よく考えたら、女優でフルネームより愛称で親しまれるほどの国民性を持ってる人って、なかなかいないよね。良くも悪くも、みんなに愛される、親しまれる役をやってるイメージしかなかった新垣結衣だけど、この映画の中では、完全に人から良く思われたいとかそういったものを一切かなぐり捨てた夏月そのものだった。死んだ目、覇気のない喋り方、猫背な立ち姿。アイドル的な目線で好きだったガッキーだけど、女優としてすごいなと心底思った。

八重子と向き合って、「多様性を認める」という綺麗事の欺瞞をぶつけた大也が、それでも理解したいと食い下がる八重子との会話の中で発した、「あってはならない感情なんて、ない。」という台詞を聞いたとき、ちょっと泣いた。誰しもが自身の中にある感情を否定せず(それをどう消化するかは注意が必要だけど)、どうにかうまくやっていける方法を探す、ヒントをくれる作品だった。

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