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最悪な自分も認めて生きていく〜映画「わたしは最悪。」感想〜

洋画の日本語タイトル失敗例として、いくつかのパターンがあると思う。
①タイトルまんま直訳で、日本語にすると映画の内容がよくわからない。
②日本人ウケを狙って、テレビドラマっぽいキャッチーなタイトルをつけたけど、本編と全然テイストが違う。
③ウケ狙いで突飛なタイトルつけたけど、普通にスベる。
だいたいこのパターンだ。

「わたしは最悪。」は、原題は「世界で1番最悪な人間」的な意味らしい。上のパターンからすると、①の直訳型ダメタイトルかと思いきや、僕はこのタイトルだけで映画の価値が5割増になるくらい、ピッタリで最高のタイトルだと思った。歴代映画の好きなタイトル、No.1かもしれない。

簡単なあらすじを説明すると、医大に入るも自分のやりたいこととのギャップを感じ退学。心理学を学んでみたり、カメラの勉強をしたりと自分のやりたいことを模索していた主人公ユリヤは、いい感じになった年上の恋人アクセルに、妻・母になってほしいと言われるも、そういったポジションに収まることに違和感を覚え、偶然出会った別の男性アイヴィンと浮気に走る…という話。

あらすじを書くと身も蓋もない話に聞こえるかもしれない。このご時世、主人公ユリヤは悪びれることもなくガッツリ浮気をする。でもこの浮気が、世界が私と彼以外止まってみえる!みたいなロマンティックな描かれ方をしていて、背徳感が一切感じられないところがいさぎよくて良い。おまけにただのロマンティックで終わらせないアブノーマルな行為をこの2人がしているところも、浮ついてバカになってる感じがうまく出てて良かった。

ただこの映画、いわゆるラブコメというジャンルに収まるかといえばそうではない気がする。30手前にした主人公ユリヤが、自分は何をしたいのか、どうなりたいのかと模索する姿が、今の自分と重なりめちゃくちゃ刺さったのだ。しかも彼女の行動は、自分の感情や意志に正直なあまり、周囲を省みていないようにみえるし、ただの無鉄砲にも、無責任にもみえる。

でも、人というものは、自分の行動全てに整合性を持てるのだろうか。自分でも、こんなことおかしいと思っていても、周りからは間違っていると非難されても、自分の気持ちが止められないことってあると思う。

自分の話になって申し訳ないのだけれど、僕はここ数年、常に迷っている。行動にも言動にも一貫性がなく、突発的で、衝動的だ。人になんと言われようが、自分の気持ちや事情最優先で動いている自分が、時々本当に嫌になる。

これは、予告編でも出てくる場面なのでネタバレにならないということで話すけど、新たな恋人アイヴィンができたユリヤは、アクセルに別れを切り出すも、「こんなこと絶対に後悔する」と言うのだ。自分自身で、この選択があとから後悔することになると分かっていても、止められないことってあると思う。僕はある。結果としてこの選択がどういう結果をもたらすかは是非映画を見てほしいのだけれど、僕は自分の感情優先で突っ走る彼女をずっと観ながら応援していた。

タイトルにある「わたしは最悪。」という台詞がどこかで登場するのかと思っていたが、それはなかった。ただ、彼女が自分の思うがまま突き進む反面、自分が最悪だという意識に苛まれているのは、観ていてよく伝わってきた。誰しもが、「わたしは最悪。」と思う瞬間が必ずあるのではないだろうか。「善き人」「正しい人」になろうとすることは、僕はとても苦しいことだと思う。時には周りを傷つけたとしても、非難されたとしても、自分を貫く瞬間が、人にはあると思うのだ。

…なんて立派な話をしたが、シンプルに僕は自分の感情や欲求に忠実な人間だとつくづく思う。そんな自分に辟易としていたこの頃、この映画は僕にそんな最悪な自分を認めてあげてもいいんだよと言ってくれたような気がした。また大切な映画が増えました。

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