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どうしようもなく、自分

先日、さくらももこ展に行ってきた。

僕が文章、特にエッセイにハマったきっかけが、さくらももこである。なんならこのnoteを始めたきっかけも、「こんな文章が書いてみたい!」と彼女のエッセイに感化されたからだ。
以下は、超初期の、僕がさくらももこのエッセイの魅力について書いたnoteだ。

日常で、ちょっと笑いが欲しいなと思ったとき、ふとした面白い出来事に出会ったとき、好きな映画のワンシーンを繰り返し再生するような感覚で、僕はさくらももこのエッセイを読み返す。

さくらももこ展では、そんな僕が好きなエッセイはもちろん、ちびまる子ちゃんやコジコジといった漫画のワンシーンやそれらが生まれるまでの過程、貴重な原画などが展示されていた。

僕は、エッセイこそほとんどなんかしらの形で読破しているものの、漫画に関してはそれほど詳しくない。小児科、歯科、耳鼻科と病院に行けば何故か必ず「ちびまる子ちゃん」が置いてあり、その待合室で断片的に読んだ記憶しかないので、文章だけではない絵も加わることでさらにユーモアと毒とカオスが入り混じったさくらももこの世界を部分的にではあるが堪能することができ、ますます僕は恐れ入った。

出口付近のグッズコーナーで、僕はコジコジのキーホルダーと「あのころ」というエッセイを買った。
「あのころ」は図書館等で読んだ記憶はあったものの所持していなかったため、改めて読み返したのだけれど、面白い。1番好きなエピソードは「道に迷ったときのこと」という話だ。小学校時代、友人数人と連れ立って担任の先生の家に遊びに行く際に道に迷った、という話なのだが、引率としてついて来た友人の母親をボロカスに言うくだりが、毒っ気MAXで腹を抱えて笑った。

さくらももこ展の展示入口に、「この展示は作中当時の表現をそのままに掲載しています」との注意書きがあったのだけど、なんだか時代背景とかそういうのじゃなく、普通の人は口にするのがはばかられるような心情をそのまんま書いちゃう作風が、面白くても人は選ぶよなぁといつも思う。さくらももこが亡くなった以降の数年で、さらにポリコレなどで一気に自由な表現がしづらくなった今、彼女が生きていたらどんな文章を書いていただろう。

実際、エッセイを発売した当時にも、歯に衣着せぬ文体に、批判的な声も一定数寄せられたらしいが、そのリアクションに対してもさくらももこは「自分の書いた文章に対して不快に思う人がいるのは仕方ないが、自分は改めることができない」のようなスタンスを貫いていた。人にもよるし、自分と考え方が合う合わないにもよるが、僕はさくらももこのやや偏見も交じった文章を不快に思ったことはない。時代とか周りに左右されることなく、この人は自分の感じたままに、自分の表現をし続けた人なんだなぁと思う。

類まれなる才能を持った人の、こういう風にしか生きられない感が強烈に羨ましい。もちろん、マジョリティーにうまく適合できない生きづらさというのは、文章や漫画にしてネタとして昇華できていない部分でもきっとあったであろう。

だけど、それ以上に自分の世界を大切に育てて守って生きている人は素晴らしく魅力的にみえる。周りと比べるとか、違う価値観をはねのけるでもなく、「あなたはそういう考え方なのね、それはそれで好きにすればいいが、あたしも好きにやらせてもらうよ、自分の人生なんだから」というさくらももこイズムは、世間に相入れない自分や、なんだかんだ適合してしまう自分に今後も悩むであろう僕の、強い心の支えになるだろう。

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