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Nighthawks


わたしのすきな米津玄師の曲のうちの1曲

『あまりに綺麗だと恐ろしいから 汚れてるぐらいがいい』

『遠く離れたものは美しく見えししまうから 思い出になってしまう前に』


夜にひとり散歩しながらきいていた。図々しながら、この言葉がいま考えていたことに対する的確すぎる言葉だった。彼の言葉選びはほんとうに言葉に出来ないことを掬って描いてくれているようで、いつもほんとうにすごいなとひたすらに尊敬している。

わたしは自分の小学生時代の記憶がとてもすきだ。
当時は何もありがたくなんて思わなかったし、むしろしんどいことの方が多かったような気がする。なのにどうしてだろうか、今になって、いまさら、この記憶が自分の創作に対する大きな理由と、原動力になっている。


わたしは、思い出を思い出たらしめたくない。
記憶は思い出すことのない状態のときがいちばん解像度が高い状態にあって、それが何かきっかけによって思い出され、それから記憶が何度も反芻される……
記憶は毎回自分の脳内の解釈に濾されて、上書き保存され得てしまう。いつの間にか、大切な記憶たちが、自分にとって都合のいいように形を変えられて、美しい素敵なものに変わってしまう。


わたしは、思い出とか懐かしいとか、ノスタルジーだとか、そう言った言葉が苦手だ。それは「昔は良かった」となんでもひとくくりにされた理想のように感じてしまう。そこには、苦しいことや、痛みだってあったはずなのに……


もう五年以上会っていないかつての同級生に、会いたいような、自分の美しい記憶が壊されたくないから、もう一生会いたくないような、二律背反な状態で。苦手だとか言っているくせに、自分が一番思い出に縋っているだけの、ノスタルジーな人間な気がする。
そのことを友達でも同級生でもない、ちょっと不思議な知人に相談してみた。その人は思い出の件に共感を示してくれた上で、「会ってみたらいいんじゃないか、自分にはそんな前の人で会ってみたいとまで思える人はなかなかいないから」と返された。

思い切って話しかけてみようか。完全に思い出に成りきってしまう前に。
もうあのメールは使われていなくて、返信が来なくても、記憶と変わっていたとしても、どれだけ自分の中で記憶が歪められたものだったとしても、そのかつての記憶がなかったことになることだけは、絶対にないのだから。

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