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骨折しなきゃわからないのね?

転んだだけなのに足首を骨折したことがある。
冷え込んだ朝の凍結した路上だった。

滑ったはずみで、身体のバランスを失って
足首に全体重がおかしな角度で乗っかった感じだ。

レントゲンを見た医師によると折れ方は
「感心するほどシンプルですね」とのことで、
ギプスで固定するだけでも問題なく、
自宅で安静にして自然治癒を待てばよいとなった。

骨折部分の回復は順調な経過を辿るも
ふくらはぎから下の血行がかなり悪く、
特に、皮膚の色もどす黒く変色した指のむくみは、
ギブスに喰い込みそうな程で
気持ちも滅入ってしまっていた。

自宅療養三週間ほど経った朝、ふいに
「そうだ、東本願寺に行こう」
と思い立つ。

なぜ東本願寺なのかわからない。
塞ぎこんでいたはずなのに強い衝動にかられた。

自宅から最寄り駅まで
タクシーを利用すれば10分程度、
そこからは京都までは特急に乗っていればいい。

京都駅から東本願寺へ松葉杖でヨタヨタ歩いても
20分ほどあれば十分行けそうな気がした。

これくらいなら
骨への負担もそんなにかからないはず。


息子たちを学校へ送り出したあと、
私はタクシーを自宅前まで呼んで出発した。

東本願寺は以前、二度行ったことがある。

京都駅から近いので時間つぶし的に
何となく立ち寄ってみた程度だったが、
ピンとはじけそうな空気感が好きだなあと思った。

骨折してしょぼくれている
今の自分に喝を入れられそうな気がしたのかもしれない。




特急の車窓から眺める深い山々の雪景色は
南側へ向かうにつれてすっかりなくなり
柔らかい日差しに変って行った。


お昼には京都駅に到着。

骨折してギブスを付けた自分が
大して歩くこともなく、数時間で京都にいる。

何て便利な世の中に生まれたんだろう。
ありがたや。

京都駅から10数分ほどで
東本願寺の門をくぐる。

京都/東本願寺 御影堂

松葉杖を揃えて傍らに置き、
少し息を切らしながら本堂の隅に腰を下ろした。

オフシーズンの平日、静寂な空気に包まれて
阿弥陀如来像を仰いで眺めているうち
不思議と寒さも感じなくなった。

とりとめなく浮かんでは消える
いつものうるさい思考も引き潮の波のように引いて行く。

恍惚感というのだろうか。
意識がリセットされたような何とも心地の良い状態になる。

ああ、ありがたし・・・


20分くらい経ったのかなと、
ふと時計を見て目を疑った。

いつの間にか小一時間経過している。

眠っていたわけではないのにな?

あまりの感覚のズレに戸惑いながらも
京都駅までの道をまた松葉杖でヨタヨタ戻る。

京都、東本願寺の日向ぼっこ終了。
なんて贅沢な午後。

喝というより、癒しという感覚がぴったり。


来てよかった・・・


想像以上に満たされた気持ちで帰宅。
近頃なかったくらい、軽やかな気持ちで就寝。

翌朝、起きてきた息子が台所に立っている私に
「お母さん、足が元に戻ってる!」
と指をさした。

言われてみれば、
寝床から出て、何の違和感なく歩き、
台所でお湯を沸かしている自分。

ギブスの足先に目をやると、
あれほどパンパンに腫れていた
足の指はむくみも引いて
血色も戻っている。

これは本当に人の足?と、
泣きたくなるくらい変色していた
昨日までの私の足が嘘のようだった。




「すごく早く回復したね」
医師や職場の同僚たちから言われまくる。

お堂での不思議な時間のことを
言いたくて仕方がなかったが、
自宅療養中に「ちょっと京都まで」とは
ひんしゅくをかいそうで誰にも自慢できなかった。


そもそも、なぜ私は
そこへ行こうと思いついたのだろう?

あの頃は休みもままならないほど
仕事にがむしゃらだったから
「少し止まれ」と
足止めされたのかもしれない。

この「強制終了」のおかげで一か月も休めたわけだから
骨折には意味があったと思えた。

だって複雑骨折になりかねない転び方だったのに
「感心するほどシンプルな」折れ方だったわけだし。

目に見えない力は存在し、その働きに
私たちは守られているぞと確信した出来事だった。

合掌。






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