次の春が来るとしても 『四月の永い夢』


はじめに 〜2年前から〜

『四月の永い夢』という映画を観たのは2年前。大学を卒業し、社会人になって初めての夏のことだ。

そのあらすじは「3年前に恋人を亡くした27歳のもとに、その恋人から手紙が届く」というもの。
漠然と「『離別』ものに惹かれるらしいぞ」ということが分かりつつあった当時のぼくは早速映画館へと行き、中川龍太郎監督と主演の朝倉あきさんによって彩られた、眩しい物語の虜になった。

ぼくはフィクションへの感度(感性ではない)が非常に高い部類の人間らしく、映画でも漫画でもアニメでも、大抵のものは面白いと思ってしまうし、140字という枠内でその興奮を即座に消化しようとすることが茶飯事だ。
その点ではこの映画も例外ではなかったが、2年も経って改めて「書き残したい」と思う映画に出会ったのは初めてだったので「なぜ自分はこの映画が好きになったのか」について、今改めて記してみようと思う。Amazon Primeでも公開されたことだし(これは宣伝でもある)。

四月の永い夢

モラトリアムとしての四月

満開の桜が咲く河川敷、眩い光を吸い込むように真っ黒な喪服を纏った女性が佇むモノローグ。一転し、その女性・初海(朝倉あき)が目覚めるところから物語が動く。
目覚め、歯を磨き、着替え、仕事に向かう。一連の動作はとても静かに、リズミカルに描写されている。特別なことはない、日々のルーティンであることが見て取れる。家を出る直前、彼女は元恋人の母親づてに、亡くなった恋人の手紙を受け取る。静かに、滑らかに進むと思われた彼女の一日だが、その日彼女はそば屋のバイトに遅刻してしまう。

そして物語が進むにつれて、彼女の前職が教師であったこと、今は教職を辞めてアルバイトをしていること、恋人が帰らぬ人となったのは3年前であることが明かされていく。

端的に言って、初海はモラトリアムに身を委ねている。
恋人の死を振り切るように教職を辞し、そば屋でアルバイトをする。そのそば屋が店仕舞いをすると聞くと、物静かな彼女にしては珍しく食い下がる様子を見せる。彼女はまだ揺蕩っていたいのだ。
だが少年少女のものとは異なり、彼女のモラトリアムに明確な終わりはない。そして彼女は静かな国立の街で、いつ消えるかもわからない喪失とともに過ごしている。
また映画はそんな彼女を追い立てもせず、彼女の「四月」を映し続ける。
ぼくらは、これが単に彼女の成長を描く映画ではないと分かり始める。

20代も後半に差し掛かった初海は、一般的には一度「成立」した人間だと思う。一方でモラトリアムを必要期間として享受する10代は、さしずめ「成立」の最中で容易に変化できる期間なのだろう。彼ら彼女らが抱える問題の多くは怒りや悲しみといった感情とセットで表出し、昇華されていく。それ自体が「成立」への肥料なのかもしれない。
この映画が初海の「成長」へと舵を切らない理由、彼女が抱えてしまった問題は感情を伴って分かりやすく、派手に昇華される時期のものではない。


自分だけの四月

ところで、劇中はもう夏だ。セミの鳴き声も、風鈴の揺れる音も映像ははっきりと捉えている。友人はタオルで汗ばんだ肌を扇ぐし、部屋には扇風機も出ている。

初海の日常はどうだろうか。
夏祭りに誘われた初海は浴衣こそ着るものの、涼しげな表情を崩さない。汗で首筋に髪が張り付くこともなく、自分に気があると思われる志熊(三浦貴大)の前でも一人「四月」を過ごしている。

ふと「私はずっと四月の中にいた」というモノローグが蘇る。時間という変化からも(おそらくは無意識に)距離を置いた初海が印象的に浮かび上がってくるのがこの中盤だ。

この映画で、焼きついて離れないシーンがある。

夏祭りの後、志熊となんとも歯がゆい時間を過ごし、帰路につく初海を後ろから映す。おもむろにつけたイヤホンからは彼女の好きな曲が流れ、その様子を横から追う。次第に笑みが浮かび、一回転。見るからに浮かれた彼女を尻目に、しかし音楽は止まり、立ち止まった彼女を正面から映す。彼女の目は泳ぎ、何かを押さえつけるように胸元で手を握っていた。

これまで何でもないように(※注1)振舞ってきた彼女の日常は、恋人からの手紙が届いたとき、かつての教え子に再会したとき、男性から好意を向けられたとき、「四月」の外からの干渉にずっと敏感だった。正しくは何でもないように「しか」過ごす術を知らなかったのかもしれない。

「四月」に揺蕩う初海の時間は進んでいないのか。どうすれば彼女は夢から覚めるのか。彼女は手紙をくれた恋人の母親に会いに行くことになる。



おわりに 〜四月の先は〜

この先も物語は続くが、結論から言えば初海は変化し続けている。この切り取られた時間の中だけでも、彼女には多くの出会いがあった。
けれども、別にこの映画には大きな成長も安易な救いもない。
初海は次の季節に移ったに過ぎず、通り過ぎた春も訪れる夏も、繰り返す四季の中でまた訪れる季節に過ぎない。もしかするとまた、永い季節が訪れるかもしれない。
それでもこの映画は閉じこもる初海を陰鬱とした暗闇ではなく、眩しい光で描いてくれる。明るい余韻を残してくれる。
劇的な成長を終えた人間の逡巡に、背中を押すこともなく、次の季節を迎えるまで寄り添ってくれる。


今なら少し言葉にできる。

ぼくは喪失を喪失のままに捉え、なお日々を何事もなく過ごす人に惹かれる。

初海のように「成立」を迎えた人にとって、喪失を「何でもないように」思い返す瞬間というのは、怒りや悲しみといった感情に劣らず雄弁だと思う。
気にしていないようで、気丈に振る舞っているようで、ポツリポツリと滲み出る整理のつかない気持ちがそこにはある。
だから、未だ意味づけされない別れを捨て切ることもできず、喪失が溶け込んだ日々を大切に過ごす人を美しいと思う。
ゆっくりと変化する日々に身を委ねながら、変わらず喪失を抱くこと。そうすることでしか惜しむことのできない別れもある。



映画『四月の永い夢』公式サイト


注1:鑑賞中、ぼくは羽海野チカ『3月のライオン』での一場面を思い出していた。家を出た父のことを尋ねられた女性が「何でもないこと」のように話すシーン。実際には「何でもないこと」ではなく、「何でもないことのように」しか話せないのだった。

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