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異変〜闘病のはじまり

なんだか、体がおかしい。

いつになっても、体調が戻らない。

新型コロナウイルスに感染し、地獄の日々を送った2週間後。

私は、いつもの通勤路を歩きながら体の違和感に苦しんでいた。

駅の階段がしんどい。というか、足がだるすぎて登ることができない。

腕を動かすと、まるで懸垂を何十回もした後のように重く感じる。

体の中が、なんだか気持ち悪い。

だるい。しんどい。重い。気持ち悪い。

職場では、みんな優しくて「病み上がりだからねー」と私に多めに休憩を入れてくれたりした。

スーパー銭湯のリラクゼーションスペースでお客様の体をもみほぐしたり、アカスリをしたりする仕事で割と激務だったから、お互い体調悪い時はかばい合っていた。

良い職場だった。

みんなの好意がありがたく、申し訳なく思いつつも、まぁそのうち治るだろうと思っていた。

しんどくても、なんとか仕事には休まず通えていたし、大柄な常連の男性客様がご希望される「強揉み」にもなんとか対応できていた。

10年ほど前にインフルエンザに罹患し、治ったあとも1ヶ月くらい体調が悪かった事があったから、今回もこんなものだと思って甘く見ていた。

普通に出勤して、フラフラながらも仕事をして、帰りには従業員特典として許されていた銭湯を楽しんだ。

けれども、体は徐々に言うことを聞かなくなっていく。

感染の隔離明けから1ヶ月する頃には、指の関節が腫れて痛むようになってきた。

指といえば、セラピストの命である。

揉み、押し、流し、摩るセラピストの仕事。

それまでたくさんのお客様への施術を通して、たくましく変形した自慢の指。

それが、日に日に痛んで使えなくなっていった。

セラピストの要と言える、体力と指。その2つが、徐々に蝕まれていく。

第2関節だけが腫れ、赤みを帯びて膨張する。

肉体的にはいたって健康体だった私にとって、ずっと同じ症状が続き、悪化していくのは初めての経験だった。

日に日に言うことを聞かなくなる体が怖くて、罹患後1ヶ月と少しのタイミングで病院に行くことにした。

異様な倦怠感は持病の扁桃炎の時にそっくりだったし、明らかにコロナに罹ってから起きた異変だったので、これはコロナの後遺症だと確信していた。

一応、その存在は知っていたから、観てくれそうなところを調べて、とある横浜の後遺症外来に行くことにした。

重い体を引きずって、満開の桜を楽しむ心の余裕もなく、洒落た街をヨタヨタと歩いた。

まわりでショッピングを楽しむご年配のマダム達がゆったり楽しそうに歩いているのが羨ましかった。

足枷が付けられているような感覚で、歩く度にフラフラしていた。

(今思えば、本当になぜその状況で仕事が出来ていたのかわからない)

病院の先生は、とてもフランクで面白い方だった。

私の訴えを聞き、カジュアルにそれは後遺症ですね〜、と言い、もう数百人も後遺症の人観てるんだよ。と自慢気に話していた。

まぐさんは大丈夫ですよ、医療的介入が早かったから予後いいですよ。

すぐに治ると、処方する漢方薬はとても良いものだと、先生は自信満々だった。

保険適用であってもかなり高い漢方薬と痛み止めを貰い、私は心から安堵していた。

これで治るんだ。

すぐ、しんどくなくなって、痛みもなくなって、空いてる施術室で倒れなくても仕事ができるんだ。

・・・そう、喜んでいた。

半年後には、駅から職場までの長くない道のりも歩けなくなり、離職する事も知らずに。

これが、私の後遺症との闘病の始まりだった。


桜の花びら。その年は、楽しむ余裕もなかった。

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