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壊される雇用と家族のいま――映画『家族を想うとき』公開記念ディスカッション

ケン・ローチ監督の新作『家族を想うとき』が、2019年12月13日から全国で公開されています。長年労働者の暮らしを見つめてきた83歳の名監督が今回とりあげたのは、「ギグ・エコノミー」と家族。世界中で広がっている「雇用によらない働き方」が、イギリスのありふれた家族を疲弊させるプロセスを描きます。
2019年12月2日、日本公開に先立ち「わたしの仕事8時間プロジェクト」が配給会社の協力を得て開催した試写会&ディスカッションの模様をお届けします。(雑誌『KOKKO』第38号掲載記事)

『家族を想うとき』のあらすじ

イギリス、ニューカッスルに住むある家族。ターナー家の父リッキーはマイホーム購入の夢をかなえるために、フランチャイズの宅配ドライバーとして独立を決意。「勝つのも負けるのもすべて自分次第。できるか?」と本部のマロニーにあおられて「ああ、長い間、こんなチャンスを待っていた」と答えるが、どこか不安を隠し切れない。
母のアビーはパートタイムの介護福祉士として、時間外まで1日中働いている。リッキーがフランチャイズの配送事業を始めるには、アビーの車を売って資本にする以外に資金はなかった。遠く離れたお年寄りの家へも通うアビーには車が必要だったが1日14時間週6日、2年も働けば夫婦の夢のマイホームが買えるというリッキーの言葉に折れるのだった。
介護先へバスで通うことになったアビーは、長い移動時間のせいでますます家にいる時間がなくなっていく。16歳の息子セブと12歳の娘のライザ・ジェーンとのコミュニケーションも、留守番電話のメッセージで一方的に語りかけるばかり。家族を幸せにするはずの仕事が家族との時間を奪っていき、子供たちは寂しい想いを募らせてゆく。そんな中、リッキーがある事件に巻き込まれてしまう──。(公式HPより)

© Sixteen SWMY Limited, Why Not Productions, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2019

ディスカッション登壇者

上西充子(法政大学教授・国会パブリックビューイング代表)
川上資人
(弁護士)
北 健一
(ジャーナリスト)
菅 俊治
(弁護士)
西口 想
(ライター・労働団体職員)

「労働組合が必要だけど、そこにない」というリアリズム

上西 このトークの前に行ったグループ・ディスカッションでは、すでに深い話題まで出ていました。それらを受けて、ご自身の立場から一言コメントしておきたいことがありましたらお願いします。

西口 一度試写で拝見して、作品を観るのは今日が2回目です。あらためて感じたのは、この映画の家族、夫のリッキーと妻のアビーは、そのジェンダーによって縛られているものが違う、描き分けられているということです。私の参加したグループでも話題に出ましたが、最初のほうで、リッキーは新しい配送業務のための車が必要になり、妻が訪問介護の仕事で使っていた車を、本人が嫌がっているにもかかわらず売らせて、購入資金をつくります。しかし、そのことによって最終的にはリッキー自身が追い詰められる。そこはこの映画のひとつのポイントだと思いました。

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photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019

川上 僕がこの映画を観たときに一番強く感じたのは、ユニオン(労働組合)があればなあ、ということです。ユニオンの意義と必要性をすごく考えさせられる映画だなと。それにもかかわらずユニオンが出てこない。グループ・ディスカッションでは、ユニオンが必要だなと思った人と、ユニオンがつくられて労働者が立ち上がる映画を観たいとおっしゃってた方がいて、僕もその通りだと思うんです。でも、そういうふうに描かれていないところに、我々が生きる現実のリアリティがすごくあると思いました。私が関わっているウーバーイーツユニオンも、みんなで力を合わせて出来たけれども、今でもいろいろ難しいことがあります。無関心だったり、ユニオンに対する根拠のない偏見だったり、仲間を集めて立ち上がることに対する冷ややかな空気だったり。じゃあ、そこをどうするんだと突きつけている映画なのかなと思います。

 今日、2回目を観ました。一つはラストシーンで、ひょっとするとリッキーは自殺してしまうんじゃないか、と感じられた方がいらっしゃると思います。実際に、アメリカのウーバー運転手の例では、この映画と同じように300万円くらいの初期費用を借金でまかない、それが返せなくなって自殺した方もいます。それも含めてあり得る話だということ。もう一つは、映画の最初に労働者がフランチャイズ契約を「選択」させられて、こういう働き方を「選んでいる」ということになっていること。見事に逃れられないような仕組みになっています。ここをどうしていくのか。映画を観て、救いがない、たたかう武器がない、労働組合もないというふうに見えるんだけど、そうした状況でどうやってつながっていくのか。家族が食事をしたり、一緒に行動を共にしている時間だけは、一瞬明るい光明がある。そこが一つ、手がかりなのかなと思います。逆に言うと、ユニオンという存在が頼りにならないことも含めてリアリズムで、そこから何をしていくんだということを問うている作品なのかなと思いました。

 私も最後の場面にコメントしたいんですが、一応表現者の端くれとして言うと、ああいうラストってすごく勇気がいるんですよね。視聴者を安心させるというか、つい希望の光を描きたくなっちゃうんですが、現に僕たちがぶつかっている状況はそんなに希望に満ちていない。むしろ困難がたくさんある。その中で、このままじゃいけないよね、じゃあどうしようという思いを観客に委ねるラストであり、それをあの年齢で描けるケン・ローチはすごいなと、ファンとして思いました。もう一つは、ではどこに希望や拠り所があるのかということですが、アビーが言っていた「私のルール」は、労働者をがんじがらめにしばる運送会社の外在的なルールとは違う、働く人が自分を律して良い仕事をしようという職能人の内的な規範だと思いました。それがきちんと生きているということが、ひょっとしたら何かにつながるかなと思いました。

上西 今のアビーの「私のルール」というのはどこの場面ですか?

 介護の仕事について「私にはルールが」「自分の母親と思って世話すること。母親をあんな状態で放っておける?」と言う場面です。

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photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019

上西 私は、アビーが会社から、訪問介護先に対しては「母親のように接しなさい」と指示されているものとして観たんですよ。でも一方で、ウンチまみれになっているような人でも時間内で切り上げなさいと会社は言う。会社の理念と実際に働いている人に求めているものが違うじゃないか、と言っている場面として観ました。一方で、アビーは「今夜は家族と過ごす日よ」と、事情はわかるけど私は引き受けられないともはっきり言うので、そこにはアビーの意志があると感じました。

 北さんのご指摘は、アビーはあまり利用者と仲良くしてはいけないと言われているけれど、お互い写真を交換し合って人間としてのお付き合いをするとか、髪をとかしてもらうとか、ああいうところに本来の仕事の喜びや、何のために働くのかということも描かれていて、そこに希望を感じるというところですよね。

 ちょっと思い入れが入っているかもしれません。

連帯の契機はどこにある?

上西 皆さんのお話にあったように、ユニオンがあればなぁと思いつつも、つながる契機がなく、むしろ労働者が分断されている状況が描かれていましたよね。じゃあ、そこにヒントや出口がまったくないのか、ご意見を聞いてみたいです。前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』の中では、公共職業安定所の外に出て、壁面にカラースプレーで「わたしは、ダニエル・ブレイクだ」と描いたときに、通りの向かい側にいた人たちが、ワーッと喝采を送る場面があり、連帯があったんですよね。だけれども、この映画だと配達員同士の連帯もないし、病院でアビーが電話越しに抗議をしたときも、病院で待っている人たちも何も言わないですね。そのへんはどうご覧になりましたか。

西口 そこがこの映画の救いのなさですよね。リッキーが仕事を始めるとき、「選択」という言葉が強調されます。契約書の中身もろくに説明もされていないのに「自分で選んだ」ことにされて、その上で、同僚の担当していた仕事を奪うように仕向けられ、リッキーは手を挙げてしまう。仲間と連帯する道を自ら絶つように誘導される様子が非常にうまく描かれています。ケン・ローチ映画は昔から救いのないラストが多いですが、その中でも労働者同士の連帯、その一瞬のきらめきを必ずどこかに入れて、だからこそラストシーンが辛いという構造の作品が多かったと思います。しかしこの最新作では最初から、主人公自らが連帯の芽を摘むように動かされていきます。そこが観ていて非常に苦しいし、かつリアリティがある。「現実にあるよね」と共感できるところかなと思います。

 今回の映画の中では、集配所みたいなのがあって、一応みんなが顔を合わせる場所、たまり場的なところがありますが、今、現実の社会に広がっているギグ・エコノミーというのはたまり場がないわけですよ。ウーバーイーツの配達員の方たちも、自分たちで集まろうとツイッターなどで連絡をとらない限りは会わない。仕事を取り合う、奪い合う関係でもあるので、例えば、良い仕事がとれる場所なんかは仲間には教えたくない、という形での競争もあるわけですね。そういう中でどうやって労働者が連帯していけるのかという重い問題、今まさに起きている新しい課題を取り上げているんだと思います。

 そういう状況が日本社会にも深くあるだけに、出口がどこにあるんだろうと、コンビニ問題を取材している身としてもすごく考えさせられました。やはり僕は、家族のシーンと共に、少し光が見えるのが介護のシーンだと感じて、地域の介護の利用者や住民の人たちとアビーとのやり取り、本当に良い介護をしようとするアビーの労働者としての良心と、それに呼応する地域の人たちや介護の利用者が交わす関係。まあ、すごく遠いんですけどね。例えば、学校を守るとか公務サービスを守るとかの労働運動の課題とも関連します。職場に閉じないで、利用者と手をつなぐことに何かあるのかなと感じました。

共有されていないユニオンの価値

上西 ユニオンが描かれていないという話がありましたが、モリーがアビーに見せる写真の中にちらっとは出てくるんですよね。1984年に何台ものバスで炭鉱ストに駆けつけたという話がされ、でも、それにアビーは特に関心を示しません。モリーは労働問題に意識があって、「予定表を見せて。支払いは?」「交通費は?」「どういうこと? 朝7時半から夜9時までって。8時間労働制は?」といった言葉を持っているんですよね。この労働状況はいかにも非人間的で、本来はこうあるべき、ユニオンを通じて改善していくべきだという考えを、自分の生きた歴史として持っています。でもそれがアビーには共有されていないことが描かれていました。モリーがお漏らしをして落ち込む場面で、アビーが「忘れないでね。私は、あなたから学んでる」と語りかけるのですが、本当にモリーからは学ぶことがあるんだよって思いました。そういう語り合える関係があれば、そこに一つ糸口があるんじゃないかと思って。でも、アビーはプライベートなことは話していけないんだと思っているから、そこで会話が成り立つかどうかは微妙なところですね。

写真②「川上資人弁護士(中央)」

ウーバーイーツユニオンの呼びかけ人・川上資人弁護士(中央)

川上 「共有されていない」という話から思ったのですが、ウーバーイーツが11月29日から報酬を大幅に切り下げたんですよ。1キロの距離報酬、今まで150円だったのが60円になったんですね。ウーバーイーツユニオンの執行委員長でYouTuberの富雄さんが説明会に参加して、「ウーバーイーツの料金改定についての説明会がヤバすぎた件」というYoutube動画をアップし、今回の料金改定のおかしさについて説明してくれました。すごく分かりやすくて面白い動画だし、怒りも伝わってくるのに、コメント欄に「ユニオンが余計なことをするからだ」って配達員からコメントが入っているんですよ。そこが本当に一番悲しい。そうしたコメントを書き込む人は、上西先生がおっしゃったようなことを知らないのだと思います。だからそんな意味不明なユニオン批判をしてしまう。僕は富雄さんに寄りそって、「いや、いいんだ。どんどんやって下さい」と言いたいし、まずはここにいるみんなで連帯して富雄さんを支えていけばいいと思う。

 モリーが話したのは1984年の炭鉱ストですが、あの当時の日本でも国鉄闘争などがあり、その頃で労働組合が華やかだった時代が終わってしまっています。それを乗り越えて、労働者の連帯をもう一度つくるのはすごく難しい。この映画では、ストレートに労働組合運動を訴えてもなかなか伝わらない現実を出発点にしているのかなと私は思いました。唯一、お! と思ったのは、アビーが病院でマロニーさんに電話する場面で、単に怒っているだけじゃなくて、「こんなの通用しないわよ」という感じの台詞があったような気がして。

上西 「1日14時間、1週間6日、お宅で働いてる。どこが自営? 逃げようとしてもムダよ」という部分ですね。

 そこは一つ、今日的にはポイントになっています。少なくともあの現場で、あれだけ始終業時刻を管理して、「お前はあそこに行け、ここに行け」と言ってる状況では「労働者」と言えそうです。だから、きちんと労働者として法的保護をかぶせていくたたかいはできると思いますし、現にヨーロッパ、特にイギリスなんかでは、そうやって労働者扱いをして保護していくという雇用審判が出ていたり、アメリカでは労働者の概念を少し拡張して保護の範囲を広げていくと。そうした司法や立法の救済の状況を踏まえて、映画がつくられているのかもしれません。連帯の難しさという点で象徴的だと思ったのは、下請けの話が出ているんですね。「代わりの人を見つけてこい」とか、「みんなで雇えばいいじゃないか」と。7、8人で交代要員を雇うような形で多重構造をつくって、映画の中では下請けの人は賃金が更に低いわけでしょう。本当にリアリズムに溢れているなと思いました。

新自由主義社会での「家族」の両義性

上西 労働問題から、家族のほうに話を移していきたいと思います。この作品の邦題『家族を想うとき』については、労働問題の映画なのにフワッとしすぎているといった批判もありました。けれども、先ほど「家族はリスクだ」という話も出ましたが、この映画は「家族」というものを、労働問題とも絡む、すごく大きなテーマとして捉えています。私が一つ注目したのは、リッキーが配達先で犬にかまれた場面で、ライザが「あなたは私の父さんに新品の下着を弁償してください」と不在票に書いたこと。ライザは当然、ユニオンとか知らないし、労働法も知らない。でも素直な言葉として、権利主張の言葉をその場で書いているわけですよね。ちょっと切ないなと思うのは、その不在票への書き込みを父親のリッキーは見ていないんですよ。娘がそういう言葉を持っているということをリッキーは知らなくて、お父さんとしてただ頑張っちゃうんだよね。そこが印象的だったんですが、「家族」ということに関しても、皆さんから一言お願いします。

西口 原題の『Sorry We Missed You』は、「残念ですがご不在でした」という不在票の定型文と、家族が仕事で帰ってこられない父親を想う気持ちなど、二つ以上の意味がかかっている素晴らしいタイトルです。それと比べると邦題は大味だな、と観る前は思っていました。しかし映画を観たあとは、この邦題は意味深長だと思い直しました。『家族を想うとき』の「家族」は、「家族は希望」とか「家族が最後の砦」といったベタな意味もあるとは思いますが、むしろ「家族」の外側からは誰も手を差し伸べてくれない、「家族しかいない」ということの希望のなさが表現されていると思います。より大きな話をすると、この「家族」には、新自由主義に対する批判的な目線が感じられます。新自由主義的な政治家の代表格であったイギリスのサッチャーが、「社会なんて存在しません。いるのは個人としての男女、そして家族だけです」と言った、その「家族」。家族に全責任を負わせて、仕事もケアも再生産も国や社会からのサポートを打ち切っていき、すべて家族単位でリスクを負わせようとする新自由主義の勢力と、そうじゃなくて個人と家族に閉じさせずに広く連帯してみんなでボトムアップしていこうという勢力とのせめぎ合いが、ずっと続いています。そのたたかいの歴史を踏まえれば、「家族」という言葉を敢えて使っているのは重要だと思いました。

上西 家族が閉じているようなんだけど、アビーは息子の友人家族とも話をしているし、娘の水泳は誰かが連れて行ってくれるとか、地域の人とも実はつながっているんですよね。人物としては登場しないわけですが。

 「家族」がやっぱりポイントだと思いますね。私が注目したのは食事のシーンです。ライザはシリアルを一人で食べることが多いんだけど、やっぱり一番幸せを感じるのはみんなでインド料理を食べるシーンですね。あそこはほっこりするというか、家族がついさっきまでバチバチしてたのが、笑いが出て、皆でまとまります。食事の大切さ、一緒に食事をとる時間があることの大切さが分かる。で、いつもスマホを見ているセブが父親に「携帯禁止」と言ったりする。この映画ではいろいろな場面で携帯が出てきますが、それで人間を管理したり、食事の時間に割り込んできたりもします。そういったものに対して、家族が対峙して、ここにこれからの希望があるというふうに言いたいのかなと思いました。

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photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019

 両義的だなと僕は思いました。皆でインド料理を食べるシーンなどで描かれるように、確かに「家族」があの映画の最大の救いであるとともに、「家族のために」という論理でリッキーは長時間過重労働に自分を駆り立てていく。そして最後の、絶望的に車を出すシーンもまさに「家族のため」なわけですよね。それで思い出すのは、フランチャイズと言えば日本ではコンビニが一番流行っているわけですが、コンビニって、家族という仕組み、家族の絆をすごくうまく使って巨大企業が儲けるカラクリになっていることです。コンビニのフランチャイズ契約は、基本的に家族単位で、夫と妻の2人で契約して、2人助け合って24時間営業を支えるというモデルなんですが、そこにおける「家族」というものは、確かにいたわり支え合うものでもあるわけなんだけれども、同時に無理を支え続ける稼働力みたいなものに一面ではなっています。この映画は、家族単位で人をこき使っていくそうしたモデルとは違うのですが、でもやっぱり「家族のために」ということが、ひょっとしたら過労死につながってしまうかもしれない一つのモメントになっていて、すごく考えさせられました。

上西 アビーがリッキーの働き方に歯止めをかける言葉を持っていると私は思います。単に体を壊すからというだけではなく、家族の時間が必要だということをアビーは価値として持っている。リッキーから「お前は甘い。朝昼働けば午後は子供の世話を」と言われたときに、アビーは「甘いんじゃないわ。そういう仕事よ」と応えています。家族のケアをする時間が生きる上で必要な時間なんだ、という言葉を持っている。それはやっぱり大事だと思うんですよね。家族のために働き過ぎちゃうというところもあるんだけれども、リッキー1人だったら、そういう別の価値観に触れる場面はなかったと思うんですよ。

住宅・教育・地域でつながる新しい労働運動の形とは

川上 この映画を観ても、最後はユニオンしかないんですよね。普通、ユニオンの最大の敵は会社であるはずが、会社じゃないんですよ。今の最大の敵は社会の空気、無関心です。そんな社会のなかで、どうすれば僕たち一人ひとりが隣の人とつながって、一緒に働いている仲間として連帯していけるか。そんな問題を突きつけている映画だと思います。息子にまで自己責任論が染みついていて、親父を非難するみたいなシーンがありますよね。12月1日に改定されたウーバーイーツの規約には「ウーバーには一切責任がない」という文言が至る所に出てくるわけですよ。ウーバーイーツはアプリを提供しているだけであって、配送業は行っていません、だから働く人に対する責任は一切ありません、と。すべてはこのアプリを使って配送業をする「あなた」、“You”の責任なんです、という表現が至る所に出てくる。それは大きな欺瞞じゃないですか。誰が見たって、ウーバーイーツの事業がフードデリバリー業であることは明らかなのに、「私たちはフードデリバリー・サービスではありません。テクノロジー・カンパニーです」と言う。そこで「やっぱりおかしいよ!」と言えるのはユニオンしかないし、一人ひとりの家族を守るのもユニオンしかない。ならば、どうすれば私たちがつながっていけるのか。そこはやはり一人ひとりに問われていることなんだなと思いました。

上西 今のことに関連して、私のほうから一言。息子のセブが父親に「自己責任だ」とか「頑張りが足りない」などと言うんだけれども、それが彼自身の言葉かというと、どうもそうではなくて、息子は息子で父親のことを気遣うようなところもあるし、完全に反抗期というわけでもないですよね。むしろ、彼は頭が良いから、頑張っても道が開けないという閉塞感の中で出口を探しているように見える。今の世の中の価値観はおかしいと思っていて、おかしいと思っているからこそ「自己責任だろう?」と父親に投げかけて、問題提起しているような関係かなと思いましたね。

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photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019

 セブという登場人物は本当におもしろい、一筋縄にいかない人物ですよね。家族の話で言うと、リッキーが何であんなに一生懸命働くのかというと、多分、家が欲しいからなんですね。この映画には労働問題が描かれていますが、その先には住宅問題があるはずで、サッチャー政権以降の様々な公共政策の中でも、住宅政策の影響が大きいのだと思います。私が最近注目しているアメリカの労働運動では、今までにない特徴をもつ新しい運動が始まっています。一つは地域とのつながりであり、子どものためならみんなが団結できるというようなつながりです。住宅や教育に関しては、様々なアクターが団結して、新しい労働運動が盛り上がる状況があります。もう一つのアクターは、アメリカの場合は移民です。それらが今後、希望を託せる道筋なのかなと思いました。映画の中でも子どもたちが結構良い発言をしていますよね。ライザが「トイレの時間も端末に組み込めたらいいのにね」と言うシーンでは「そうだよ!」と思ったし、最後のシーンでセブが車の窓越しに「元のお父さんに戻って欲しいんだ!」と叫ぶのも、それは誰もが「そうだよね」と思える台詞だったと思います。いま労働運動はバラバラにされているから難しいかもしれないけれども、地域や家族を足場にした新しい運動が展開できたらなあと思います。

 東大阪市に松本実敏さんというセブンイレブンのオーナーがいるんですが、彼は奥さんをガンで亡くして、アルバイトさんが何人も辞めて、自分が過労死寸前になったときに、本部に無断で夜お店を閉めたんですね。本人は「現代の百姓一揆だ」とおっしゃっているんですが、僕はその話を聞いたときに、「夜買い物に行ったら閉まってた。ふざけるな」といった声がたくさん来ちゃうのかなと心配したんですが、逆にすごく激励されました。しかもコンビニに関わっていたり働いていたりするステークホルダーの人たちから、「おれもこんな目にあっているんだ」「私も何とかしたい」といった声が殺到しました。マスコミにも出て、彼のお店は奇跡的に守られて、いま次の展開につながろうとしています(*トーク後の昨年末、セブンは契約解除を強行)。やっぱり現在、昔ながらの「職場の団結」だけではどうにもならないところもありますが、さっきの菅さんの話のように、生徒さんだったり、親御さんだったり、近所のおじちゃん、おばちゃんだったり、職場の労働者ではないんだけど、その問題に切実に関わっている人と働く人が手をつなぐことで、実はこの問題は変わっていくかもしれません。この映画から、そういうふうに思いました。

西口 菅さんが指摘されていた、娘の「端末で何でも管理できるんだったら、トイレの時間も入れられるはずでしょう」という指摘、あれは本当に「その通りだよ!」と思いますよね。人間の生理上、絶対に必要なトイレの時間すらプログラムに入れていないのはおかしい。であれば、わざと入れていない、つまり働く人を人間扱いしていないのかもしれません。これまでずっと、機械化や科学技術が進展すれば人間の労働時間が減り労働環境が良くなるはずだという見通しのもとに、私たちは技術革新にいそしんできたと思います。しかし、現実にはそれと逆のことが起きています。今回の映画の主人公が置かれている境遇などはまさにそうで、なぜ技術や情報の精度向上や高度化が働き方の改善にうまく寄与されていないのかが問われるべきです。労働者の視点から見れば、明らかに技術革新の分け前がうまく分配されていない。現場で働く人にとって、情報技術革新・ビッグデータ化などの恩恵を民主的・社会的にちゃんとコントロールできないと、利益が一方的に企業に独占され、どんなに技術が向上しても労働者を使い捨てる構造は変わらないということだと思います。

上西 こうやって話すといろいろ話題が出てきて、救いのない結末のようだけれども、よくよく観ると目を向けるべき種はいっぱいある映画だと思います。公開されたらもう一度、観ていただければと思います。

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掲載元:雑誌『KOKKO』第38号(堀之内出版)

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