正体不明の私たち

昔々は、本名もしくはペンネーム・ハンドルネームの精々ふたつくらいが1人が持つ名前の全てだったのではないか。

まふもちは現代っ子らしく、複数のSNSを使っており、そのどれものアカウント名が違う。そしてそのどれもが、相互にリンクを貼っておらず、見るだけでは繋がりはない。
私のSNSアカウントを全て把握している人は居ないのではと思っている。
ほかにも、同じSNSでもアカウントを複数所有し、それぞれを独立して使い分けている人もいる。
趣味①用、趣味②用、リアル用、うんぬんかんぬん。

1人の人間であれ、さまざまな面を持つのは古今東西同じだが、最近では特定の面のみを分散して発信しやすくなっていると感じる。

興味のない話題は見せたくない・見たくないだろうという配慮のようにも感じるし、「丸ごと自分を受け入れてくれる人などいない」という諦めにも似たものだと感じてしまうのは穿った見方だろうか。

立場も性別も年齢も住む場所も異なる私たちが、共通の話題を通じて繋がり合うというのが人々の交流文化の側面であるのは変わらない。
ただ、共通の面のみは見せ、異なる部分は隠してしまうというのは、新たな発信・見せ方なのかもしれない。
「同好の友は何食う人ぞ?」そんな疑問を抱くことさえも、「旧時代」の発想なのかもしれない。

などと、旧時代生まれのまふもちは思うのであった。「最近の若者は」、に入らなくなったので、晴れて旧時代の人間として自由に振る舞えるのはなんという皮肉かと思うが、この程度で皮肉と感じるのは弱すぎるのでは?とも思うので、これは皮肉ではない。

気楽さはある一方、特定の面のみでの交流は浅い付き合いに限定すべきというのも、旧時代的発想ではある。ただ、危機管理としては悪くない発想だと思うけれど。

「SNSはやっていません。人間結局はひとり」と自己紹介していた大学教員を知っており、「なんと捻くれた人だろう」と思った記憶はあるが、この浅い付き合い推奨の現状を鑑みるとそれもまた真理かもしれない。

今日もまた、SNSで何食う人かも知らない同好の友とタイムラインを流れ、見送るのであった。ひとりごちる部屋の冷たさはひとりだからか。いやいや、暖房をつけてないからだろう。

そうして、この文章をもし読んだ人がいたとして、これもまた、正体不明なまふもちの一面でしか無いのだ。どこかに住む、人間と思われる生き物と思われる存在のある一面としての「まふもち」。
私が存在している証拠は、ここには無い。
そんな現実ともうつつともつかないぼんやりとした存在、それが私たちなのだ。

【余談】

久々に投稿しようとしたら、コメント欄はプレミアムじゃないと設けられなくなったのですね。まあ、コメント欄あってないようなものですが。
アマゾンプライムミュージックの改悪と同じにおいがしますね

…これくらいで皮肉と思っていては、生きてけませんよ☆

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